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流れ着く大日如来

昭島市は昭和町と拝島村が合併して誕生した市です。昭和町の「昭」と拝島村の「島」を一時ずつ取った合成地名です。昭和町は比較的新しい地名ですが、拝島村の「拝島」という名前には古い由来があります。

天暦6年(952年)、日原村の日原鍾乳洞に安置されていた大日如来像が洪水で多摩川に流されてしまいました。大日如来像は玉川花井の島(多摩川の中州)に流れ着き、村人たちがお堂を建てて像を拝むようになったことが拝島という名前の由来と言い伝えられています。

このお堂は浄土寺と呼ばれ、現在の大日堂とは違う場所にありました。どこにあったのかは現在でも不明です。その後、滝山城が築かれたときに、その鬼門除けとして石川土佐守が現在の場所に移したのが大日堂です。

江戸幕府が編纂した「新編武蔵風土記稿」には、拜島村の由来について次のように記されています。

土人の話には、こゝより十一里餘、多摩川の上流のほとりなる日原村より、徍吉大日の像流れきたり、東の方大神村の川生涯に漂ひ着て、夜々に光明をはなちて赫熠たりしかば、里民等これを禮拜し、當村に迎へて安置しけるより名くと云、是浮たる說なり、其佛像のあがれるところを浄土寺という天台の古刹あつて此大日の像を安しありけるが、瀧山城元八王子へ移りし微し、遂に廢寺となりし、大日の像と密嚴土寺の額を拜島村に譲りしと云、されば今もこの大日のころに就ては、大神村にて與り聞かざることなしと、此兩說いづれを是とせんや定かならず、大神村の條合せみるべし、拜島の文字或は蠅島とも書きてへたり、所因詳ならず​。

武田信玄と北条氏照の戦場に大日堂は天暦6年(952年)に創建されました。滝山城を築城する際に、鬼門除けとするために現在の地へ移されました。

永禄12年(1569)に北条氏が支配する関東へ侵攻した武田信玄は、小田原城へ向かう途中で滝山城を攻める際に大日堂に本陣を置きました。

滝山城を守るための大日堂が敵の本陣となってしまいましたが、大日堂のご加護のお陰か、城主の北条氏照は武田軍の撃退に成功します。ただし、落城寸前まで攻め込まれたので、滝山城を破棄して八王子城を築城する原因となりました。

​出典元:昭島ブログ

 

流れ着く白衣観音菩薩

天明より寛政4年に至る十余年の殆ど毎年に大きな台風が本土を襲い其の都度洪水浸水になやまされつつありました。其の上霊峰の富士山が大噴火を起こして広範囲の田畑が降灰で積もり作物は全滅に‥‥数年間苦境を余儀なく打ちのされたのであり以降明治42年まで平穏なる年月であつたが翌年43年の秋には忘れていた一大台風で多摩川は洪水化して各所で堤防は寸断決壊濁流は渦巻いて民家をも押し等々の大あばれ‥‥恐ろしい有様であったと後まで聞き及んでいます‥‥その数年後多摩川の中程に仏像らしき物が流れつき同村の納屋に保管されていたその像を大山道の十字路にお堂を設置して観音菩薩として祀りたので平穏に過ごすこととなると故老より伝えられています。後に多摩川白衣観音菩薩と改講させて戴きました。

出典元:しょう爺とアッコ婆のホームページ

​このように多摩川は仏とのご縁の深い川となったのです。

千数百年の因縁でしょうか...
​多摩川は仏との因縁の強い聖なる河でもあるのですね。

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