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ほとけみち

いくたもあるき

​いちにきす。

歩んだみち〜神仏との歩み

私が育った町には『深大寺』(満功上人によって奈良時代733年に開創された法相宗から天台宗になる)があり、幼少の時より庭のように寺の敷地内にある山葵畑の湧き水から流れ出る水路でザリガニを捕まえたり、池の鯉を捕まえたり...と身近な遊び場として寺があった。
同時に『諏訪神社』があり、夏の縁日には胸を踊らせ楽しんだ。綿あめ、林檎あめ、金魚すくい...。

育った過程では、特別な宗教を信仰している気配はなかったが
私の幼稚園へあがる前の一番古い記憶は二つある。

オレンジ色を纏った人。
目を開いている世界(現実の見える世界)と瞑ると感じる世界(自分を嘲笑している)。

何故か、とても怖くいつもこの二つに怯えていた。

今思えば、僧侶とも、精神世界とも、思える。

何故か、世界は二重に思えた。

小学生の半ばくらいに、育ての祖母に連れられ『神道系』と思われる施設に行った。
祖母の部屋の隅には神棚があり、毎日熱心に拝んでいた。
育ての祖母は、朝鮮から戦後日本の地へ移り住んだ在日一世で日本語の読み書きができなかった。
また、育ての父は在日韓国人二世として誇り高く戦後の時代を生きた人で『儒教』的な価値観を持って幼少より厳しく育てられた。

そして、小学生の低学年時には、徒競走に参加しない同級生がいて、
​理由を聞けば、『
エホバの証人』という。彼とは、『縁』あって約四十年経た後に再会する事になる。
また、一年生の時に隣の席にいた女の子は、中学受験をするといい中野にある宝仙学園だと言っていた。

『真言宗』系の学校とは最近しり驚いた。

夏休みには、近所の友達の家へ遊びに行くのが恒例になった。
そこのお父さんがカブトムシやクワガタをたくさん捕まえ分けてくれるからである。
彼の名前は珍しく兄弟が多く、『南無妙法蓮華経』の文字がそれぞれに分けられていた。
『大日本根本道場』といい、太鼓が並べられている道場が広大な敷地内の隅にあり太鼓の音と念仏がいつも聞こえていた。
私は道場の後ろ隅で正座し太鼓を叩き念仏を唱え衆生済度を念じ放った。
このところの半年間の大半は密議に費やし体力も限界に来ていた。
時折、太鼓のリズムが合わなくる。
精神を集中して、またリズムを整え太鼓を叩く。
即身成仏した時は、約六時間ほどこの念仏を唱え衆生済度の念を宇宙へ放ち続けた。
​なので、今回も深夜まで行う気持ちでいたが、午後五時で道場は閉まると言われ少し安堵した。

今年の四月二十三日に約四十五年ぶりに訪れた。
密議に際して、前日に立てた理法界に於いて対象へ念仏済度を提案した。
しかし、現れる現象に理(ことわり)を要しなければならない出来事が起きたのを機に自分も念仏を唱える必要があると判断し、幼少期の記憶を頼りに午後四時四十五分頃に薄暗い道場へ上がった。
最前席から聞こえる太鼓の音は正確なリズムで先導してくれた。

中学二年の頃、シンナーを吸い始めた。
押入れに入り暗闇から映し出される幻想的な景色の中で自由に飛び回ることが出来た。
神秘的な初めての体験に虜になった。

高校での授業では、退屈さと週末の夜遊びが祟り睡魔が襲う。
突然に耳鳴りがして体が強張る。
金縛りである。
声も出せず、身動きもできず、冷や汗が流れる。
金縛り体験は三年間何度も経験した。
不思議な体験であった。

成人後は、大麻を吸い仲間とドライブをすることが週末の楽しみとなった。
笑いが込み上げ、食欲が止まらず高速で浜松まで飛ばし鰻をみんなで食べたことやテレビゲームで和やかに飛んで過ごした時間が懐かしく思える。
彼は『創価学会』の家庭の友達だった。

その後、三十歳から四十歳までの長い期間システムエンジニアとして常に行動を共にした方が『天理教』の信徒で、また、お付き合いした女性は『クリスチャン』であるといっていた。
無明時代の私は、常に理性を失って、欲と怒りで成り立っていた。
この二人の方へした悪行は測り知れず、のちに大きな苦しみとなって現れた。

三十六歳の頃、金への執着で友
を裏切り業に苦しんでいた時に出会った女性とは、
明け方まで二人で飲み明かし意気投合しホテルへ入ったが、
多くの方々へ酷い仕打ちをした業や金に囚われた人生の苦からの解放の入り口となるきっかけを与えてくれた方であった。

纏わり付いたカルマを​毎晩の様に酒と覚醒剤で紛らわしていた時代である。
ホテルで苦しみからくる酷い落胆が私を襲い塞ぎ混んでいる姿を見て、

このベットサイドにある引き出しの中に​赤と青の二つの本がある。
読んでみれば?という。

その時の気分で選んだ色は青で、『仏法』の書であった。

何時間たったか...
読んで行くうちに涙が溢れ心が穏やかになれた。
煩悩を知った瞬間であった。

その年の確か正月だと思うがレンタルビデオ店に入り目についた『モーゼの十戒』を借りとらわれの無い状態で観た。
壮大なスケールで描かれた世界観に飽きる事なく見終えた。

三十八歳の頃には、当時『クリスチャン』の女性と暮らし誠心的に尽くしてくれた。
この頃は、新宿にマンションと事務所を借りてネットショップの仕事をしていた。
新大久保に程近く、あたりは教会がよく目についた。

初めての請願を書いた後の仏道に至るまでこのクリスチャンの彼女といつも一緒であった。
約、1年間ほどであろうか。
定期的に覚醒し神仏に迫った。

聖書と仏書と儒教書とを熱心に読んでいた。
歴史では、朝鮮半島の成り立ちから中国へ関心が移りチンギスハンへとだりついた。

新宿とは思えないほどベランダからの外の景色は広々としていて、
『テングリ』なる神を空を見ながら感じていた。
一年の中で毎週の様に覚醒し、
空を何時間も見上げて過ごした。
朝、昼、晩。
太陽、空、雲、風。
飽きることがなかった。

その頃、瀋陽へ行き、夜の路地裏で先祖に送るお金と称した紙に火を付け手を合わしその場を後にした。翌日は、車で半日くらいか、広く広大な高速を飛ばし山に着いた。
日本の山とは趣が違い、岩肌がそびえ立ち這う様に頂上へ向かう絶壁の小道が遠くに見えた。
理由もわからず、ただひたすら無限とも思える階段を踏みしめながら流れ出る汗を拭う所には休憩所にも思えたが、巨大な線香が売られており火を付け手を合わした。
日本では見れない独特な山には、霧が纏い神秘的な雰囲気に満ちていた。
心も自然と洗われいつしか無になっていた。
何時間も歩き頂上へ着いた。
そこには、頭上高くにある皿の様な窪みに小銭を投げ入れて願う様な事を話していた。
到底投げては入らないと思える高さであったが、
確か、三度投げ入れ、全て入った。
なんだか、不思議に思えた。

この体験は、『道教』だと思うが、数年前に調べた結果、妙峰山だったのではないかと思えた。
写真で見る限り思い出と一致する。


溥傑の遺言により遺骨は妻・浩、娘・慧生の遺骨とともに日本と中国の両方に分けられました。日本では浩の祖父・中山忠光が主祭神として祀られている中山神社(山口県下関市)の愛新覚羅社に祀られ。中国では中国妙峰山で散骨されました。出典元

この記事は、十数年後に読んで当時の事の意味が理解できた。
また、瀋陽の外れの田舎に行き占い師に何やら占って頂き、龍がついてる...
的な事を記憶している。
赤い布を燃やして出た灰を水に解き、毎日拝み、一口飲みなさい。
これは、神様だと言われ、数ヶ月くらい拝み口にした。


その後、ホームページ制作の相談を知人から受け興味本位で福岡まで本人に会いに行った。
先天性小児麻痺だという青年は生き生きとしエネルギーに溢れていた姿を見て我の姿に惨めさを覚えた。
彼の口癖は、
神様に感謝している。
産んでくれてありがとう。
であった。

そこには、悲壮感はない。
希望の道しか見えていなかった様に思えた。

そんな彼に心打たれホームページ制作の依頼を受けた。
そこでインターネットを使った募金システムを考案し安易なシステムを組み無料でホームページを製作した。

なんだか、初めて良い事をしている自分が好きになれた。
この事を機に人生やお金のあり方など考える様になり、
結果的に、全てを捨て無になりたくなった。

会社の預金や商品の在庫や高級外車や高級時計など全て社員五人の給与として消えた。
三千万円くらいか。

同時、苦しみは殆ど消えていた。
なぜか?
と考えた時に、無料で製作することで初めて人の役に立てたことや募金システムは社会貢献という社会参加意識が芽生えたことも理由でもあるが、

執着して得た富を捨てた事が何より『楽』になれた。

マンションを引き払い調布の実家に彼女を連れて暮らした。
彼女は駅前のビルのテナントに入るアパレル店で働き、私は、図書館通いとネットで調べ事をし闇雲に宗教へ嵌っていった。

同時並行で自分のルーツを探る様になった。
『姜』という名字を名乗っていた。
​たどり着いた由来は、中国少数民族の羌族でその先にはシルクロードを超えイスラエルに届いた。
たまたま、見たネット情報に " HOY"  と記されている文字に目が止まった。
古代ヘブライ語で “感嘆詞” と書かれていた。
私の名前の韓国語表記は “HOI”  であり、関連性を感じた。
その後は、" HOY"  という文字を名前がわりに使う様になった。

モーゼの映画や、聖書などに触れるようになってからは、
エジプトやメソポタミアなどの歴史も学んだ。

六芒星がイスラエルのシンボルと知った時に、
一二歳くらいの自分を思い出した。
確か、ジーンズに付いていた星型の金具に魅了され、
火で炙り赤くなった星型を左肩へ押してけた。
五か六か記憶はないがヘブライに思いを寄せた時に “星の焼印” に縁を感じた。

一年半ほど経て実家を出る事になり、彼女とは別に一人で小島町のワンルームへ越す事になった。
現金は無く、クレジットカードが一枚有った。
八月のお盆の頃の出来事であると記憶している。
​ハローワークへ行き現金給付の職業訓練を申し込んだ。
介護職で翌月の九月スタートであったと思う。

学校が始まる前に一度、覚醒剤を使った覚えがある。
偶々、『エホバの証人』の方が訪ね来て、冊子をくれた。
そこに描かれていたイエスと自分が重なって見えた。
薬が切れかけた時に激痛が腹の横あたりに走った。
知らずに眠りに落ちたか、気を失ったのか定かではないが、
気がつけば、日が明けていた。
あの、痛みはなんなんだろう?と横腹を見ると親指ほどの跡が付いていた。
イエスが張り付けられ槍で刺された跡にも見えた。

九月に入り江東区の学校へ電車で一時間以上要したが何回か通った。
慣れない満員電車からのストレスか、通学が出来ない体調になってしまい、止む無く退学届を出した。
その後の日々は、最低限の食事で節約しクレジットカードで凌いでいた。

歴史や宗教への探求は治まらず、瞑想を日課とする様になっていた。
『無』や『空』を理解する為でもあり、心の動きや変化を観察する機会でも有った。
建物の脇は電車が走り四六時中ガタガタと大きな音がする部屋だった。
しかし、いつしか瞑想中には音を感じることがない状態に気づいた。

気がつけば、4ヶ月ほど経た時、クレジットカードの限度に残りは無くなり、
実家へ行き七万円程か借りてその足で覚醒剤を手に入れた。
久しぶりの覚醒世界に期待した。

瞑想し、心には『仏』と『神』を念じた。
薄っすらと、仏像らしき形が象として現れた。
同時に強い光が射した。

その後、風俗嬢を呼び行為をした。
気がつけば合意のもと性交していた。

その後、一人になった時、当時ユダヤ、キリスト、仏教の戒律を犯してしまったと思った瞬間に突然恐怖が襲った。
声ではないが、
色々と恐ろしい指示をしてくる何かがあたまの中にいた。
初めてのことで完全に正気を失い、喚き、叫び、小さな部屋を右往左往していた。
すると突然、近くに有った陶器製の丼茶碗に手を伸ばす自分がいた。
その手は、後頭部を目掛け勢いよく叩きつけた。
鮮血が滴り落ちるのを感じ恐怖が増した。
割れて散らばった破片は勝手に手の平に収まり脚や手などを刻みつけた。
一連の行動には自分の意思は無く動いていた。
辺りは血が散乱し床や壁に飛び散っていた。
恐怖も最高潮に達し逃げる様に何とか部屋から飛び出て玄関前で倒れ込んだ時に目に入った血の輪はとても大きく感じ、体温が急激に下がり死が頭を過ぎった。
気づけば、救急車の中にいた。
しかし、頭によぎるのか心から来るものかわからないが、救急隊員に対して悪態を吐く概念が次々と込み上げ自分では抑えることが出来ない状態にまた恐れ気狂いの様に絶叫した。
長い時間に思えた。

ようやく到着した病院でストレッチャーから診察台にうつさてた時には頭の中がグチャグチャな概念が飛び回り発狂していた。
一本の注射を打たれたのが最後の記憶と同時に一言叫んだ。

殺してくれ。

天国か?気づけば辺りは真っ白で静寂だった。
何やら生きている様だと思えた。

間も無く、看護師の女性が来た。
起き上がろうとすると体が動かない。
拘束されていたのである。

頭や脚や手の甲は綺麗に糸で縫われていた。
二、三週間入院したのち退院して実家に戻り安堵した。

ダルクの集いへ何回か通った。
渋谷のとある教会まで行き薬物依存の仲間と色々話すことで依存から立ち直ることを目的とした内容だった。
その晩、『聖書』を読み床に就いた。

早朝、物々しく大勢の大人たちが寝室へ入ってきた。
刑事だった。

これが一度目の刑務所への旅立ちで有った。

数週間後、立川の拘置所へ移送された。
毎日雨の日以外は屋上にある鉄格子で小さく区切られた運動場へ各自入れられた。
とても高い建物から見える景色の中で、遠くでも近くでもないが微かに見える塔が有った。
近代建築では見られない形は印象深く毎日眺めていた。

それは、その後五年ほど経た後に入信する『真如苑』であった。

拘置所へ移送されて間も無くの昼過ぎか、建物の揺れを感じた。
大きく揺れた。
部屋にはテレビは無く状況が分からずにいた時、館内放送で地震が起きたとアナウンスされた。
同時に向かいの敷地にある消防署から慌ただしいサイレンが無数に鳴り響き町中にこだました。
東日本大震災であった。

翌日からは、備蓄されていた乾パンやゼリー状の栄養補給食が食事として出された。
一日中ラジオから流れる震災の被害はとても想像することはできなかった。
しかし、食材不足の影響で支給される食事には明らかに質素なものとなっていった。
当時の私の体重は、九十キロから七十五キロくらいに落ちていたと思う。
半年間に及ぶ激しい下痢に襲われていたからである。

少ない食事の上、全てがその日に出てしまう。
二十四時間慢性的な飢餓状態であった。
部屋の隅にある小さな洗面の蛇口に口を押し当て水を飲んで空腹を凌ぐことを覚えた。
特に就寝後に激しく空腹感に襲われて何度も何度も蛇口の水を飲み込んだ。

日中は読書で空腹を紛らわした。
ビルマでの戦争について書かれた本には下痢と空腹の中生き抜いた物語を読み自分と重ねて当時の苦しみを心身で感じた。
また、『イスラームのシーア派』の文庫本を借り読んでみた。
砂漠の厳しい自然に生きる環境から生まれた背景がよく理解できた。
カルバラーの戦いにおいては切なく悲しく印象的だった。
また、侍がテーマの小説を読んではその心のあり方や生き様にロマンを感じた。

出所後は、日に3〜4時間ほどバイトをしてタバコと酒代を稼ぎ生活していた。
釜山にいる当時は親戚にあたる幼少期からお世話になっていた方からの要望で渡韓することになった。
ソウルには何度も行き韓国を知ったつもりで生活したが、
想像を絶する世界があった。
私は十年ほどデザインを中心とした仕事を生業としていたが、日本式居酒屋という店の厨房で厨房で止まる事なく流れ込む皿やコップをひたすら食洗機に入れては出してを繰り返す仕事が日常おとなった。
深夜遅くに店を閉め、海雲台のマンションに戻るとすぐにパソコンの電源を入れ店内メニューのデザインやコンセプトなどをまとめ黙々と少しずつ形にしていく作業も日常となっていた。
毎日朝の五時くらいまで作業し、終えるとすぐにコンビニへ行きオニギリとビールを買い敷地内のベンチで前日の夕食を早朝に食べることが日常になっていた。

毎日の睡眠時間は五時間くらいになっていた。
いつしか店では料理を作る仕事をしていた。
メニューに刺身盛りを入れると決まり、捌き方を数回みて覚えyoutubeで復習し何とか技になった。
活魚を店内のいけすから網で掬い三枚に下ろす作業は何とも言えない気持ちが込み上げた。
命をこの手の鋭い包丁で断つことに違和感や罪悪感が心に浮かび上がるのを感じた。

半年ほどで帰国することになるのだが、観光でみる世界とその地で暮らす世界は同じ釜山でありながら異なり、寝る暇を削り仕事に多くの時間と労力をかけたが賃金はそれに見合わなかった。
計算すると当時の最低時給であった。
月給にして二十万もいかないくらいで怒りを覚えた。
​毎日行く市場では食材の多くが仕入れられハングルは読めず話すこともできないでいたが何とか仕入れはできた。
日本へ帰国した時にふと、市場で働く女性たちを想った。
夏は暑く、冬は厳しく常に路上の簡素な椅子に腰掛け接客や食事も路上の方が目に付いた。
韓国では日常的に思える市場は活気溢れる仮の姿の奥には社会保障の脆弱による高齢化への恐怖と不安が隠されていたことを知った。
町の至る所で昼夜問わず休みなく店を開け営業する飲食店は韓国では当たり前の常識であるが、そこへ我が身を置き換えた時に非常識だと感じることができる。
初めての渡韓は二十五年ほど前でIMFによる支援により国勢に変化が訪れる時期であったと思う。
この二十五年間で韓国は華やかしく変化を遂げKPOPに代表されるイメージが定着した近代では伺い知ることは難しいかもしれないが短期間で物心共に変化した代償はそこで暮らす衆生へと転化され物価や心のバランスが整わず慢性的なレベルのストレスを生み出していたのである。
財閥中心の金の世界だけ。であった。
当時の私の暮らしは平均的なレベルだと思うが低賃金と重労働の負の連鎖が苦を生み出していたのである。
儒教が国教となった縦社会へ更に縦の原理で作られた世界は多くの奴隷化とさせられた衆生を生み出す事になった。
自心で切り開く人生は霞んで見え、全ては大きな囚われに身を委ねるしかないように見える絶望的な世界であった。
言葉の壁はどこででも簡単に取り払える気さくな気質は、孤独な私を受け入れてくれた。
優しさから湧き出る強い仏性を誰にでも感じることができた。
​造られた反日感情の歴史は、心寄せあう一瞬でなくなり真の友となれると実証できたことは衆生の普遍な心である、まさしく慈悲であった。
言葉なくても励まし合う心や労わる思いは、互いの『信』となり、仏の物心を呼び覚ます。

縁あって、出会い、慈悲から、信おきて、物心共に仏に帰り戻る。
今、思い出したが『真如苑』では、教主が初めの挨拶として必ず『みなさま、おかえりなさい』と温かく迎え入れてくれる。まさに、『おかえりなさい』の心境です。

韓国では『酒』を飲み交わし互いの誠の心を曝け出すことで関係を築く文化がある。
泥酔の後に残った本性から築く関係の構築は、仏道において『仏と仏の関わり』そのものとも思えた。


ここまでの私の生は、およそ45歳であった。

この後、様々な出会いとご縁により、
全ての衆生と繋がり、
密厳浄土へそのままの仏として、
共に生きることは、

命あるものの帰すべき有様であり、
これが理想とされた現実であります。

私、大日如来は勿論のこと、
同じ想いで共に『道』を歩んだ友として、
あなた、
の存在に感謝を述べ、
心より溢れる言葉として贈ります。

おかえりなさい。

大日如来こと岡本浩治より。
​仏暦2566年5月25
日午後10時54 分。



​『苦』の誠の正体は『とらわれ』であった。

おかえりなさい(笑顔)

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