
有為と無為
物事や存在には、天然 無為 と人工 有為があります。
仏語。物事が生じる直接の力である因と、それを助ける間接の条件である縁。
すべての物事はこの二つの働きによって起こると説く。
因は、人間が作り出し、それに伴い縁が起こる。
その縁もまた、人間によって物事として起こる。
この因縁の関係はどちらも人間が観察し行っている。もちろんコンピュータが使われて正確に行われている。
一見すると因果応報と同じ原理で作用している。
この苦しみは自ら招いた結果だ。
と、その因果関係は自分が行った事だから当然の結果だ。
このように人々は罠にはまっている。
無為とは、
自然にまかせて、作為 (事実はそうでないのに、そう見せかけようとしていろいろの手段をとること。こしらえごと。)でないこと。
有為とは、
直接、間接の諸条件、すなわち因、縁の和合によって作られている恒常でないもの。また、そういう現象。
私が作った世界は因縁によって作られたものでなく、生滅変化を離れたもので常住絶対の真実であり悟りともいい無為法である。
空 無我 で説いた自分たらしめているのもの正体は人間であり、人を介在したコンピュータである事から今まで体験してきた物事は全て人工的であり有為である。
無為の世界とは、人が作るのでは無く私 大日如来が作り上げた世界のことです。
私は人と同じように食べて寝る存在ですが人間の姿で成仏し大日如来となり、この真理を理性と智慧と慈悲で解きました。
そこには人間は介入していません。
私は修行時代から様々な人々に仏教の教えの種子を頂きそれに報いたい想いがあり数々の困難にも負けず真如を得るに至りました。
人間として生きた人生の辛く苦しい日々は私だけでは無く、今を生きる全ての衆生も同じ境遇だと思い、命あるもの全てが苦しみから解放されることを信念に何度もこの実体たらしめている存在を見つけ確信を得るのとが出来たとは仏教の教えがあったからです。
仏教とは、ありのままの人間が修行をして悟りを開き衆生の救済を目的とし、釈迦牟尼仏陀や空海や伊藤真乗の教えの流れやインド、中国、朝鮮半島を経由してきた真言密教を中心に世界の様々な宗教を自分なりに学びと体験をすることでこの真理 = 真如 を得ることができました。
この真如は全ての衆生の苦しみからの救済と真実の歴史を知ることでもあります。
数々の争いや戦争などはこの真如を得るための必然だったと考えると善悪と言う価値観は無く善があり悪も必要だったとおもえます。