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史実では下記の記述があった

13 世紀初頭、チンギス・ハーンがモンゴル高原を統一し、「モンゴル・ウルス」という国家 を打ち立てた時、その国民の半数以上は、ネストリウス派キリスト教徒であったと推測される。 それ以外に仏教徒、ムスリム、道教及び儒教の信者もいた。特に、モンゴル帝国のハーンの側 近に、様々な信仰をもつ異邦人が数多く集い、宮廷では、シャーマン、キリスト教徒、仏教徒、 ムスリムが重要な役割を果たした。 このことから、フフ・テンゲル(蒼き天、シャーマニズム)を信仰するチンギス・ハーンと その後継者たちは、宗教に対して寛容な政策をとり、信仰の自由と平等を保障していたことが わかる。
有史以来の世界宗教弁論大会 が1254 年 5 月 30 日に、モンゴル帝国の都であるカラコルムのネストリウス派キリスト教礼拝 堂において、キリスト教徒、イスラム教徒と仏教徒による弁論大会が開かれた。審判役にモン ケ・ハーンの 3 人の書記がつとめ、3 人はそれぞれキリスト教徒、イスラム教徒、仏教徒であ った。大会は、「誰も相手と口論したり、相手を侮辱したりしてはならぬ。また、誰もこの討 議を妨げる如き騒ぎをおこしてはならぬ。これらにそむけば死刑である」9というモンケ・ハ ーンの厳しい命令のもとで行われた。とある。
出典元

1616年に満洲人(女真族)が建国した「後金(こうきん)」によりモンゴル
チベット仏教は、吸収されて清王朝へと引き継がれた。チベット仏教は8世紀-12世紀にかけて後期密教無上瑜伽タントラ等)の教えを中心としたインド密教を広範に受け入れ、独自に消化した点にも大きな特徴がある。

17世紀初頭に女真出身のヌルハチが満洲(女真)のハンに即位して後金を建てていたが、後金はヌルハチの子ホンタイジの代でモンゴルのチンギス裔のハーンを服属させ、満洲だけではなくモンゴルに対してもハーンとして君臨することとなった。こうしてモンゴルのハーンとなった満洲のハンは、自らを元のハーン政権の後継王朝と位置付け、国号を清と改める。
出典先
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実存としての存在

このような​歴史的背景の過去においての物事には多くの秘密があったが、長い歴史と共に密教は世俗で事物として働き密厳浄土の完成の因となる大日如来の出現元の実体で正統な血を引くものとして私は、この世に生まれた。

  • 日本国の血縁

中臣鎌足を祖とする藤原北家師実流花山院家の中山忠光 は、 権大納言・中山忠能の七男であり母は平戸藩主・松浦清の娘愛子で明治天皇の生母中山慶子は同母姉であり、忠光は明治天皇の叔父にあたる。 そして、藤原北家閑院流三条家庶流である公家・華族の正親町三条家はのちの嵯峨家の長女である嵯峨浩愛新覚羅溥傑の次女である嫮生の血を引く。

  • 満州国及び清王朝の血縁

金王朝の初代皇帝である完顔阿骨打(ワンヤンアクダ)を祖とし、女真族の愛新覚羅氏出身で後金の創始者。の初代皇帝である努爾哈赤第(ヌルハチ)から​※満州族で12代目の清朝皇帝及び満洲国皇帝である愛新覚羅溥儀(あいしんかくら ふぎ)の血を引く。

清朝成立後の女真を満州人という。清朝が成立した後、女真に代わって使われるようになった。女真の間で信仰されていた文殊(モンジュ)菩薩にもとづき、自らの民族名を満洲(マンジュ)と言うようになった(異説もある)。中国ではかつての金以来、女真は侵略者と見られていたので、中国支配を進める上で彼らは自ら民族名を変え、満洲人と自称するようになった。出典先

サンスクリット語のマンジュシュリー(文殊師利、文殊菩薩のこと)に由来するともいわれるが、元来は16世紀までに女真の名の下に括られていた人々のうち、建州女直[注釈 2]に属する5つの部族(スクスフ、フネヘ、ワンギャ、ドンゴ、ジェチェン)を一括する呼称であった。日本の東洋史学者である岡田英弘は清朝時代のダライ・ラマが「マンジュと言われるからには、清朝皇帝は文殊菩薩の化身である」と宣伝したものを第6代皇帝の乾隆帝が政治的に利用したところから、文殊菩薩が民族名の由来となったという俗説が生まれたのではないかとしている。出典先

以上の話は公にされておらず秘密とされ、私自身も52歳の6月まで知ることはなかった。

この事実は口頭によって伝えられたものでは無く非言語での伝達であった。

  • 一方で、過去の世俗世界では、在日韓国人として育った。

当時は、形式上は『韓国』で想いは『朝鮮』にあったので私にとっては、どちらも育ての親であるとも言える。

また、母として育ててくれた女性は、婉容の子であり、歴史上死んだとされていた人物であるが愛新覚羅溥儀の子であるから異母姉弟となる女性で写真で見る婉容と瓜二つの容貌だと思いました

婉容(えんよう、1906年11月13日 - 1946年6月20日)は、満洲国皇后愛新覚羅溥儀の正妃。出産した子供を夫である溥儀の子供だと主張する婉容に、夫の溥儀は万に一つの可能性も信じなかったと言います。溥儀は婉容の出産に怒り、子供を捨てるよう命じ生まれたばかりの女児は、僅か誕生から1時間足らずでボイラー室に入れて殺害されたといいます。事情を問いただす溥儀に婉容は子供の父親について黙秘をしましたが、元2人の侍従が疑われ放逐されており、婉容には「子供は親戚の手で育てられる」伝えられますが、結局意に反し溥儀の命で処分されています。出典記事

また、無上瑜伽タントラのパートナーとして身分を隠し現れた女性の中で、日本国の天皇家の子女である眞子さまが印象的でした。眞子さまと認識したのは、その3ヶ月後の刑務所の独房での禅定中に直感的に理解しました。彼女は、私の『耳』について、

耳大きいね。と、

言っていたのを思い出し、手元にある週刊誌の中の『悠仁さま』を見たときに特徴的な同じ耳をしていることから非言語のメッセージで眞子さまと私の間の子であると分かりました。

日本での真言密教において天皇家との関わりは古くから密にあり『縁』を実感させられました。

高野山で真言宗を開いた空海は、修行の妨げになるとして高野山での花や果樹などの栽培を禁じていた。そのため、仏に供える花の代用としてコウヤマキが用いられている。2006年(平成18年)9月6日に誕生した秋篠宮家の悠仁親王のお印(皇族個人のシンボル)はコウヤマキである。出典記事

私には、非言語で認識した子供がいます。

​しょうご、まーくん、ひさひと、かな。

​この様に、全ての物事は、『非言語』で伝えられ都度困惑しながら飲み込んできました。

また、遡ること40歳頃の歴史を学ぶ時期に中国の瀋陽に連れて行かれ『先祖供養』をしてきましました。当時は誰に対しての供養か理解していませんでした。

 

点と点が線となり、令和三年六月に出生の事実がわかりました。父溥儀の写真を見た時、母の写真を見た時、それぞれの特徴が私の顔を刻んでいると確信しました。

その後の夏(七月頃)、密議の際、『非言語』のメッセージで、明治天皇へ報告する様にと感じ取り急いで、明治神宮へ行き長い時間手を合わせながらこの経緯をご報告しご供養もさせて頂きました。

その年の八月十三日のお盆にまずは、父、溥儀の弟であり祖父にあたる愛新覚羅溥傑と祖母にあたる妻の嵯峨浩さんと長女、慧生さんへご報告と供養の為に無我夢中で、下関にある愛新覚羅社へ行きました。東京から電車で多分八時間ほど掛かったと記憶してます。

山陰線から見える景色は、連なる山々と川や田畑など心和む心地よい風景でした。

山々はそんなに高くないが、その中腹には神秘的な『雲』が湧き上がって静寂の中で静かに躍動しているかの様に思え心が穏やかに、そして悠々としていった。

​愛新覚羅社は、とても小さく溥傑と浩さんと慧生さんは離れる事無く固く結ばれているのだと感じ安堵しました。海岸線の浜辺から近く緑豊かな土地で、私が来ることを長く待ってくれたと思い数珠を取り出し安らかな仏となる様に...

もう、ご安心ください。とご供養し、感謝の気持ちをお伝えしました。

置いてあった記帳に『愛新覚羅』の姓を初めて名乗りそこへ書き込んだ時に歴史の重みと責任の重みを感じ取りました。

​次に、同敷地内にある中山神社の御祭神の中山忠光卿へご挨拶とご報告と供養をさせて頂きました。弘化二年(1845年)に、大納言中山忠能卿の第五子に生れ、明治天皇の御生母中山一位の局(慶子)は姉君であり、忠光卿は明治天皇の叔父にあたる方が、自分のご先祖であると知り感謝の念が込み上げて来て涙溢れるなか手を合わせた事は生涯忘れることは出来ないでしょう。

何故なら、偽りの自分は日本で育ち暮らした身でありながら在日韓国人と朝鮮人という漂う意識の中で堅牢なアイデンティティの確立が出来ずに成長せざるを得ない人生を歩む事が不安だったからです。

翌日の八月十四日のお盆中に昭和天皇陵「武藏野陵」 武藏野陵 昭和天皇陵 (東京都八王子市 に位置する)へ行き、手を合わせご報告とご供養をさせていただきました。

 

この様に真実の自分を理解できた時に、為すべき事の現実性が現実になると確信することができた。また、不思議なご縁だと感じたと同時に安心感から真に自分を肯定できる様になりました。

​この様に知り得た天皇家と愛新覚羅家の両家の関係は現実であり密教的にも繋がり無碍無く理解できました。

一切の事実を知り虚無から遍照なる慈悲の感情から正しい見方が出来た。信ずべき見方は浄なるべきであるから、生ずる智慧を持って慈悲により真なる世の成り立ちが見え始めました。

 

この様に全てが真実で過去の世俗世界は、『愛別離苦』なんだと改めて感ずることができました。次にある『誠』の文字は、中山神社と愛新覚羅社の敷地内にある施設に保存されていて、他に浩さんや慧生さんの手紙や溥傑の書の掛軸などと並んで中山忠光卿による直筆の一枚の書が展示されていたものです。

直感的に、捉われなく自由であり正直な印象を受けました。注釈としてそこには国の為に身を投げ捨て若くして世を去ったことが明記されており、その無念の想いは、私が受け継ぎこの『誠』の清く強い思いで全ての衆生済度に邁進する決意ができました。

この様に、真言密教とチベット仏教や天皇家、愛新覚羅家の相対関係に於いての仏道への自信と確信も得て自分の使命と責任をおもいしらされました。

 

事実としての存在

私は、現在においてもこの様な事実や経緯について『話し』として伝えられたことは一切ないですが、それが密教であるのだと思います。

​大日如来と直接認識されている意識は密議においての女性の態度や方便の非言語のコミュニケーションで伝えられることから私の存在を知っているのだと思います。

また、54年間今までの生活環境の全般に於いても関わる方々全員が私の立場や未来を認知していたと思います。

今思うに『密教』とは大衆の中で信仰され、古くから大衆に依って環境​作りが世界的に進行されて世界平和に向けて準備された礎で、まさに『大乗』であると思い考えることができます。

日本に於いての密教の歴史は古く海により唐から伝えられました。

空海が806年、中国(唐)より帰朝。その後空海は、弘仁7年(816年)に高野山金剛峯寺を修禅の道場として開創。

◯今後の私は

多くの方々に認知されていると認識しますが、大日如来となって全ての衆生済度と密厳浄土を地上に出現させた現在は、この事実を世に告知しなければと思い私の意志でインターネットを使い公表いたしました。

現在は、使命を果たすまでがむしゃらに生きると決めたまでで、正直明日のことも自分では分からずにいます。

なので未来に於いての権力や地位には関心はありません

物事において到達への手段としてその立場でないと成し遂げられないことをする為に一時的に権力を行使しました。

しかし、常に明日の事など考える余裕がないのが正直なところです。

​現在の全ての​衆生はみな、そのままで仏になっている(即身成仏)密厳浄土世界を作るまで54 年間ありましたが、それが私の全てです。

これ以上望むことはありません。

​しかし、何か出来ることがあれば密厳浄土世界で役に立てればとも思います。

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