仏の書を手に取ってから凡そ二〇年になろうか。
当時の私は、一言で表せば正に「一切皆苦」であった。
人生が苦しみに満ち満ちていた。
私の心は、「虚栄心」「猜疑心」「怒り」「不安」「依存」に支配されていた。
自分に自信が持てなかったからだ。
3Kと言われた「高学歴」「高収入」「高身長」がステータスの時代。
多くを手にいれ虚栄で飾る。
それが人生の目的だとバブル経済が押し付けた。
「経済社会」は「競争社会」であった。
「他者」より勝ち抜き「勝者」になることが「ルール」であった。
そこでの「友」とは「利害一致」の利害関係者のみである。
金の切れ目が縁の切れ目。
「金」の支配世界。
その根底は「欲望」の世界。
「欲望」を原動力に世界は回っていた。
たくさん「消費」する為に、たくさん「労働」する。
これが、「世界競争」である。
悉く「競争」であり、
「他」は、「敵」となる仕組みである。
「生き抜く」為には手段を選ばず。
このルールが「普遍」だと信じていた。
「物欲社会」に疑問を抱いた。
様々な「縁」から「菩提心」が起きたのは一五年前になろうか。
「振り子の原理」のように生き方が変わった。
四〇年間生きて染みついた「自分」。
過去を振り返り「偽り」だと感じた。
「悪欲」の囚われである。
本当の「自分」。
これを探し続けた。
それが「仏道」であったと分かった。
本来の自分探し。
「作為」のない本来的な自分。
その「生き方」が「楽」なのである。
溢れ続ける情報に「作為」されず。
人間の「本質」を見出す。
誰の教えでもない。
諸法無我。
諸行無常。
物事は移ろい変化する。
「空」の世界観。
ここまでは、般若心経。
確かに物事は「多面的」であり「実」を捉える事はできない。
南無妙法蓮華経から法華経と出会った。
諸法実相。
根源的な実の相。
「楽」の実体。
あるがまま。
全て取り払えば残るもの。
一、「即心是仏」は、自らの心がそのまま仏であるということ。
二、「作用即性」は、自己の身心の自然なはたらきはすべて仏性の現れであるということ。
三、「平常無事」は、人為的努力を廃して、ただ、ありのままでいるのがよい、ということである。」ー「禅思想史講義(春秋社刊)」から引用。
思うに「成仏」とは、「人を超えた存在」ではなく本来的な「人に帰る」ことではないだろうか。
思いやりの心。
これだけなのかもしれない。
「華厳経」で体験した世界観。
一即一切。
一切即一。
円融無碍の世界。
これは、一切の囚われのない心で感じた世界であった。
自分たらしめている「自我」を無くせば現れる。
「神の国」「仏の国」。
二項対立から離れ「人の国」を想う。
そこで言う「人」への学びがお釈迦さまが説いたと思う。
そしてその「人」になることを成仏と言われたのだと思う。
人間の原点回帰の方法なのかもしれない。
「宗教」として捉えれば抵抗感が生じる。
「道」として捉えれば良いのではないだろうか。
何者にも囚われない自由な人が「解脱」なのかもしれない。
そこにあるのは、
人
だけである。
仏暦2566年8月25日ごろ
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