top of page
  • 執筆者の写真大日如来

一つの家族への想い


一つの「ものごと」は、全てに影響をもたらします。

例えば、2001年9月11日の米国同時多発テロ事件が起きました。

私にとって人生の大きな転換点になった「ものごと」でした。

記憶に鮮明に残るのは、「事件」の悲惨さよりも「世俗」の悲惨さでした。

私は、見合いの縁で結ばれる運びとなった資産家の女性と婚前旅行を兼ねて私の暮らす東京で宿泊することになりました。

ハイアットリージェンシー新宿の高級ホテルで優雅にこれから先の裕福で自由な人生を想像しながら「人生の勝ち組み」になったと思える瞬間でもありました。

その、幸福絶頂の最中の「ものごと」でした。

ホテル内のレストレンで高級料理と食べ高級ワインを飲み高級な特別ルームで寛いでいました。

ふと、テレビを付けてみると慌ただしい音声と映像が飛び込んできました。

巨大なビルに巨大な飛行機が突っ込む映像はまるで映画のように思えました。

繰り返し、繰り返し流れる映像。

未だかって見た事がないスケールの映像で未だかって経験したことのない事件が起きていている。

この私の世界と映像の世界は大きく異なる対極の世界が存在していました。

この事件の数日後、盛大な式を挙げ豪勢な料理で500人以上をもてなし掴み取った成功の人生の先を力強く握ったマイクで会場を大きく沸かすスピーチをした事を忘れません。

そして新婚旅行に、イタリア、フランスへ行くことになりました。

初めて乗る「ファーストクラス」は、当に「成功者」そのものでした。

ミラノ、フィレンツェ、ベネチア、ローマをバスで巡る旅行は大きく期待を裏切る悲惨な旅行となったのです。

女性との間で意図的にトラブルが作られ、二人の気持ちに大きな溝が出来た状態となったのです。

これを機に私の世界と映像で見た世界がシンクロし同調して行くことになるきっかけとなったのです。

4日間のイタリア旅行は険悪なムードの中で粛々と行われていきました。

ベネチアでは、憧れの高級腕時計を買い物欲を満たしてゴンドラに乗り込んだ私は耐え難い虚しさに襲われた事を約20年経た今でも鮮明に記憶している「ものごと」となるのでした。

憧れのベネチアで乗るゴンドラは私たち専属でカンツオーネが付き優雅な音楽と風景画のような美しい街並みと裏腹に「無言」な二人。

「気持ち」は高鳴るが、「こころ」は虚しく。

この日を境に私の「気持ち」は「こころ」に従い虚しさへ大きく転落して行くのです。

多分帰国後の数週間後には離婚することになるのですが、「物事」から「事物」へ変わって行きました。

これはどちらも「出来事が起きる」事を意味しますが、

「物事」とは、物=人が、事を起こす。

「事物」とは、事が起こされ、物=人が従う。

この二つの言葉の意味はとても重要な事を表しています。

通常は、行動の選択は自分の意思で行う。

しかし、自分以外の意思による強制された選択は逃げ道がありません。

この縺れた状態は私の人生に絡みつき私の意思とは反対な方向へ事が進んで行くのです。

この「縺れ」はこの後2年間で最悪な人生を生み出しました。

離婚は私の意思ではどうにもならないこの「縺れ」が原因で離婚せざるを得ない事が起こされ、人生の奈落の底へ突き落とされました。

更に、敢え無く「夢」奪われた私は現実に耐えれなくなり、

「孤独」と「絶望」が私のこころを蝕み続け、耐える為に覚醒剤を使う日々が始まりました。

しかし、以前とは明らかに状況が変わっているのに気がつきました。

覚醒剤を使用した時に覚える「快楽」以外に「恐怖」が付きまとい出したのです。

当時の覚醒剤は今よりも強力な成分で興奮度も高いものでした。

反面、倦怠感も酷く、伴う凡ゆる負の感情に支配されていきました。

凡ゆる「事」に疑い、得体の知れない恐怖が生まれる。

私に起きる「出来事」は初めに「事」が起きて私の行動を制限する異常な世界は覚醒した時に、より異常と思える現象を生み出す事になっていきました。

過去の作られた失敗から罪悪感が生み出され、五感から入る情報は全てが「負」となり「疑い」が生じます。

この「疑」は凡ゆる考えを次々と産み出します。

「あれ」か「これ」か「それ」か。

永遠のループとなり現実的には考えられない状況が作られていく事に更なる恐怖が増して行くスパイラルにはまって行くのです。

私は「追跡妄想」に囚われ、いつしか「何者」かによって監視されると思う状況が次々と展開され「妄想」では済まされない「現実」となっていきました。

ある日、覚醒剤を吸引しながら車で移動していると、体に違和感を感じました。

心臓の鼓動が早まり熱くなる。

ジリジリと細胞が焼けて行くような感覚。

正に「恐怖」が現れた瞬間でした。

この「感じ」は幻覚ではない痛みです。

では、何処から何が私の体に痛みを与えているのか?

断定は出来ないが、自分の中で可能な限度を想定し仮説を導き出し、

対策を考えたりすることで、現実化する恐怖の実態を暴くために「観察」を注意深くする「癖」が知らずに身につき「事」への分析をする毎日が始まりました。

ホテルに部屋を取ると「水」の流れる「音」が何処からか止め処なく流れ、

また、高層階には相応しくない「犬の声」が外から聞こえ、

部屋の外からは「人の走り去る音」が行き来し、

異常な世界が現れてきました。

状況を「見る」為にドアの小窓から廊下を覗くと、

明らかにカーペットのシミに「顔」が大きく描かれている事にさらなる「違和感」が「恐怖」となり得体の知れない「恐怖の世界」の住民となってしましました。

それは、その後、何度も、何度も、繰り返し現れました。

私は「幻覚」とは思えず友人知人に話しをしましたが、全員「幻覚」だと言いました。

しかし、私は全てにおいて「確信」がありました。

「幻覚、幻聴」は錯覚から生じますが、「事実」であれば、

何が起きているのか?

と考え出しました。

「音」や「見えるもの」「痛み」は、五感で受けるもので、

仏教では「空」と捉えます。

色即是空。

物質や見えるものには実態がない。

と、いう教えです。

物理学では「状態」の固定は「認識」して「固定」されるというような事を何かで読んだと思いますが、このように考えれば確かに実態はどのように「認識」するかで変化するので「空」かも知れません。

では、逆に、都合よく取れ得て都合よく考えれば、

「状態」は、そのとうりに「固定化」される事に気がつきました。

凡ゆる「現象」は心が産み出し、「現実化」する。

これは本当のことなのだと。

ならば、ポジティブに捉え

良い「現象」が現れるようにする他ないといつしか判断するようになりました。

仮に「痛み」が本当に槍で刺されている。と認識したらどうでしょう?

これこそ、怖いですよね。

なので、どんな痛みでも「空」と捉えますが、

事が終われば、「分析」し、科学的な側面と「常識的」な範囲で「認識」化していきます。

そこで、初めて「空」から「実態」へ変化して行くのです。

この「痛み」は私の人生に於いて何度も現れました。

時には、救急車を読んで病院へ行くこともありました。

また、痛みから気絶することも何度かありました。

この「見えない」ものからの攻撃は時には「怒り」さえ剥き出し、

様々に心を揺さぶりました。

「見えない」ものは「怖い」

当たり前です。

「見える」世界にいたのだから。

しかし、「見えない」世界があると認識する事になるのでした。

この「見えない世界」とは、どんな世界か?

私は、非常に気になり「あれ」「これ」と思慮を巡らせました。

答えは、「霊的」な世界。「心の世界」でした。

このような体験から「心の世界」=「見えない世界」に惹かれ、

宗教へ関心が高まって行ったのでした。


以上の体験から考慮すると、

⓵9.11事件

⓶リーマンショック

⓷東日本震災

⓸トルコ地震


などは、私の物事と関連して全て起きています。

偶然ではなく、連動しています。


ここで、私はこのように考えました。


因果関係は「空」とし、

認識は「有」としました。


ここで早まって「負」の因果関係を作ってしまうと、

「負」の世界ができてしまうからです。


ですので、上記の出来事は、

人間のした「有為」であるが、

その目的は?


「恐怖」から「希望」を生み出すための「装置」である。


と解釈しました。

宇宙を創造した「大日如来」は私であるからです。


この創造には「悪」があっては絶対にならない。

この今までの世界は「悪」が常識的な存在として、

人々を苦しめてきました。


「恐怖」から「暴力」へ。

「暴力」から「殺し」へ。


この「根源」は何なのか?


それは「無知」であり、「無知」は「無明」と仏教では言います。

「恐怖」は「理性」を奪い歪んだ「認識」を産み出します。


私は、正直に申しますと、

1日において何度も「認識」が反転し、

五感から生じる情報によって「認識」が変化する事に改めて気がつき、

「迷い」が生じた時に思い出すことは、


「悪い人はいない」


なぜなら、人々を殺し、富を得る。

そんなシナリオが誠氏中に流れる情報が溢れる中で、

「理性的」に捉えれば、

地球で「自分ひとり」が富を得てたとしても、「幸せ」か?

と問うと、私にはそう思えないからです。


それは、自分だけが「富」を得て

幸せになれなかった経験からの答えでした。


では、何が「幸せ」だったか?


それは「他」が幸せになる事が私の幸せである、と何度の思える機会があったからです。

「笑顔」は最高のご褒美だと思います。


電車に乗ると「笑顔」の人が誰一人居ない事に気付きました。

これは、社会全体が「苦」で覆われている。

人々の疲れた顔や悩んだ顔を見ながら昨日は電車に揺られ帰りました。


私の周りでは、笑顔の人が誰も居ません。

コンビニの店員さんで笑顔の人は殆ど見かけません。

ファストフード店でも見かけることはありません。


高級店では、料金に「笑顔」が含まれてしまっています。


今や「笑顔」はお金と引き換えになっている世界は「異常」だと思います。


本当に真なる「笑顔」が見たい。

では、どうすれば良いか?考える。


私ができることは世界の創造です。

天照神であり、大日如来であるからです。


創造した責任があるのです。

しかし、


正直、

私は、

同じ、


人間


なのですから。


しかし、

人間でいてはいけないのです。


食べる為に「殺す」動物だからです。


この行為が動物的な暴力へ進展する「殺人システム」だと思うのです。

食べることは当たり前です。


しかし、もし、あなたが「神」であり「仏」であるならば、


どうか、考えてみてください。


抵抗感が生まれると思います。

私たちが「幸福」でいる為には「進化」が必要なのかも知れません。

「進化」とは「心の進化」です。


私は、特別な人間ではありません。

体験した事をみなさんに共有して頂き、ともに「進化」する単なる先導者なのだと思います。


私はあるがままの状態で入れるように最善を尽くし生活する事で

仏、

神、

にもなれると実感しているからです。

全知全能の神ではなく、



しかありません。


人間としての欲求を全て捨て払い残ったものが、



でした。


神となって街へ出た時に感じたのは、

人々が愛おしく思えた事。


生まれたての赤子のようにさえ思える不思議な感じがしました。

この経験は心の「次元」をあげる事で誰でもが思える心境だと悟りました。


鬼、

悪魔、


にもなれます。


しかし、悪は疲れるのです。

私は、時に「鬼」となり「悪魔」にもなりました。

膨大な「負」のエネルギーは「魂」を消耗します。


しかし、「愛」「思いやり」は、

溢れるふほど出しても枯れる事なく、

エネルギーは増すばかりなのです。


私は、この2年9ヶ月を世界の創造に費やしました。

そして、8ヶ月の間は記憶が殆ど残らない状態で物事を行なっていました。


食事や睡眠は減り、

お金や性欲も捨て去り、


今、私が所有しているのは、


希望


だけです。

この希望は、15年間私から離れることはありませんでした。


どんな状況でも、


希望


だけ残りました。

どんな形であろうが、

何者になろうが、


一つ


にならなければ、私たちは


生きていけないのです。


もし、世界が一つで皆が幸福になれるのなら

キリストにもなれます。


しかし、世界観が西洋とは違うと思うのです。

私は西洋文化の信奉者でありました。


しかし、都会から田舎へ

もの から こころ へ

文明から自然へ


帰ると、ダサいと思っていた日本や東洋の思想や哲学が美しいと感じたからです。

現在の日本では意識している人はいないと思いますが、


「礼」

「義」

「忠」

「孝」

「信」


などの儒教的な行動をする若い方をよく見かけます。

西洋の方でも見受けることも多々あります。


日本の文化や歴史を理解し、

愛しているのだと思います。


私のアイデンティティーは50年以上「空」でした。

何者でもなく、常にマイノリティーとして生きていました。


自分に日本人の血が流れている事を知っても

実感することは容易ではなく、

忘れてしまうことが多々ありました。


このように「血」ではなく、

「学び」なのだと思います。


色々な国へ行き、

色々な方々と交流して、

多くの事を学びました。


それぞれに良い文化があります。

みなさん良い方ばかりでした。


精神文化を考えた時、

日本には、

の文化がありました。


柔道、花道、茶道、剣道、など


心技体

の文化でした。


つまりは、

こころ と からだ の

バランスが良く、

整えられている、

と思えたのです。


武士道も「道」であり

日本人は誇りに思っている生き様でもあります。

また、「極道」という「道」の方々との交流も多々ありました。

非常に厳しい「道」であります。


この「道」の精神は、

日本独自なのかわかりませんが、

神道にしても「道」があり、

仏道にしても「道」となります。


王道という「道」もあります。


人が一生をかけて生きる様の筋が「道」なのではないでしょうか。

同じ「道」でもそこへ流れ着くには「支流」があり、

別々に歩んで一つの「道」へ繋がるのが自然界で見られます。


川は何本もありますが、

一つの大海へ流れ出ます。


「道」においても

また同じだと思います。


どんな「道」を歩んでいるのか分からなくても、

一生懸命に歩んだ「道」は、

一つの「道」にたどり着く筈です。

その道は、

全ての現象が無碍なくいられる「道」であります。


仏教だけでは、

に対して存在感が消え去りませんでした。

どんなに修行しても

という存在は具体的ではなく

「見えない」もの

であるからでした。


しかし、日本の神道では、人々は「氏神」がいて

先祖代々皆「神」となる文化です。


ですので「神」に対しての「恐れ」や「畏怖」よりは、

「守護」のイメージが強いと思われます。


本当の親が「神」となって存在するならば、

安心できると思います。


私が、「日本の神」となって感じたことは、

自然体、でいられること。

謙虚さ。

礼儀。


など私に無い素晴らしいものを与えてくれたのです。


今の、私は、「恐怖」が無く、

かといって「傲慢」ではありません。


歴代の天皇陛下の生き様を鑑みると、

自然とこのようになるのです。


天照大神

は皇室の皇祖神であります。


私が名乗り、行動する事で

日本の皇室へ如何なる迷惑もかけることはできないのです。


約、2600年の歴史ある「神」

約、2500年の「仏」


この二つは、日本において奇跡的に

一つ

で居られるのです。


神仏習合


の文化は、どのようにしても離す事が困難でした。


しかし、「一つ」にしてみると整う感じが身に染みてわかるのです。

古い歴史からでも理解できます。


日本の神や仏は、

日本人は区別なく、

ともに在るのが日本なのです。


この「神仏」が一体となっている状態は、


「慈しみ」


が共鳴し増すばかりなのです。


私は、人の心に

ある人には「神」が

ある人には「仏」が


と認識しています。

この組み合わせは多神教ならではの事なのです。


「唯一」に囚われて如来としていた時は、

気が休みことはありませんでした。


私が「法界」を縁起させることに何度もした時、

現象界が整わず、

悩み、悩み、

暮れてました。


「華厳経」など、私には理解できないのです。


そこで、現れたのが「八百万の神」でした。

自然界に隈なく「神」が宿る。

それぞれが「自然界」で暮らす衆生の為に「自然現象」として

活動する「神々」なのです。


このことから、私は、「八百万の神」の働きに感謝し、

日本では、衆生済度の為に「仏」が「神」となり、

姿を現し救う事ができる。


という、本地垂迹を一度は試したが、理解浅く続く事が出来ませんでした。


しかし、今回は、「自然体」でいられるのです。

この本地垂迹は、「神」の振る舞いが理解できずにいた時は難しいと考えましましたが、


歴代の天皇陛下が民を想う気持ちを感じた時、

初めて、理解する事が出来ました。


その「国」で暮らす人々の「苦しみ」「喜び」が、

直接に感じ取れる立場に居るからです。


日本の神々は、「源」が同じで、

言うなれば、皆「家族」なのです。


この「家族」的な結びつきは、

「国」を強く纏める作用を生みます。


私が感じたのは「主従」ではなく「家族」なのです。

私が長いあいだ「独り」で暮らしていけるのは、

大きな「家族」の中にいるからです。


この「家族」を世界へ


と考えた時に「平和」がはっきりと見えてきました。

永遠普遍の「家族」は、

私の理想であり、憧れでのあるのです。


このような経緯で、

長かった「道」が一つになり、

一つの「家族」が出来ました。


私たちは「信仰の自由」があります。

其々に「自由」があります。


何を信じるかは「自由」です。

私の人生は「自由」がテーマだったのかもしれません。


「愛」は自由と束縛の両面があり、

永遠かもしれませんが変化する感情です。


「自由」は、ただ、「自由」があるだけです。

精神的に「自由」でいることは素晴らしいことです。

身体的に「自由」でいることもありがたいことです。


「自由」とは、「選択できる」ことでもあります。


私は、仏教の本を破り捨てた事がありました。

「あれこれ、うるさい」と。

びりびりに破り捨てました。


こうして、多くの体験と学びから得たことは、

「自由」でありました。


私にとっての「自由」とは、

最後に残った「もの」が「自由」だっただけです。


「選んだ」つもりはなく、「残った」ものです。


私の人生は「自由」がありませんでした。


「不安」

「恐れ」

「怒り」

「悲しみ」

「裏切り」

「暴力」

「支配」


など、様々な「負」の感情が常にまとわりつき「自由」を求めて生きていました。


13歳の頃には完全に「自由」を求めていました。


私は、15歳の頃、洋楽に触れ、

特に「UK」や「US」のヒットチャートのラジオやレコードなどに親しみ、

「自由」を感じました。


20歳の頃、初めての海外旅行は「ハワイ」でした。

一瞬で「虜に」なりました。


大きな道路に大きなビーチ。

大きなショッピングセンター。


全てが大きく、全てが「自由」に見えたのです。

これを機に益々「自由」への欲求が高まり、

たどり着いたのは「お金」でした。

「お金」は全てを叶えてくれる存在で、

「自由」への切符のように思えたからです。


この「切符」を得る為に私の人生は大きく狂い始まるのでした。

「自由」を得るはずが「苦」しか得る事が出来なかったからです。


私が居た世界は「お金の世界」でした。

人々の目標は、「お金」だけでした。



私が、約10年程前に書き記した「お金」をテーマにした文章がありました。



・ 私の生い立ち ~在日韓国人三世としての家庭環境~

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


1968/8/19 に東京都調布市で両親が在日韓国人の家庭に生まれました。


父は、長崎県の対馬で生まれ育ち、母親は早くに亡くし身体に障害のある祖父が男兄弟4人を粗末な家で「竹細工」をして育てたと聞いています。


その後、中学を卒業し、兄弟4人で東京に職を求めて上京し、現場仕事で生計を立てながら生活を始めたそうです。


同じ在日韓国人の母とは「見合い」で結婚し、その頃から自営で電気工事会社を兄弟で設立しました。


母方の祖母には幼少期に育ててもらったので日本へ移住した時の苦労話しなどを良く聞かされて私は育ちました。

戦後の「くず鉄拾い」や「どぶろくの密造」など当時の朝鮮人特有の闇の仕事をしながら5人の子供を一人で育てあげたと良く自慢していました。


このように、私の両親ともに決して裕福な家庭環境で育った訳ではありませんでした。


その後、高度成長期に乗って父の仕事は努力を認められ三鷹市の「指定業者」へ在日韓国としては初めて認定され、市の公益施設などの電気工事の依頼が主な仕事となり生活も安定していきました。


当時は、「在日韓国人」に対して差別は現在よりもあった時代ですが、「貧しい生活から抜け出したい!」

そして周りの人たちを見返してやりたい!…とい気持ちで休みなく働いたと聞きました。


私が小学校へあがる頃には、生活水準も良くなり父は念願の「マイホーム」を建て、言わば「中流家庭」として生活する事がでできるようになりました。


しかし、両親は「儒教」的な教育を受けているためか、「贅沢」を毛嫌いするように思えました。


・ 非行へと走る ~両親への反抗~

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


「質素」「倹約」を強制された私は、周りの友達に比べて「なんで何も買ってもらえないのか…」という気持ちでいつも母親に対して駄駄を捏ねる子供となり、それが「非行」に走る原因の一つになりました。


私は、中学校へあがるとすぐに「不良グループ」に加わり「酒」「タバコ」「シンナー」「暴走族』への参加などで両親からの理解できない理不尽な対応へ反発するようになって行きました。


いじめや暴力問題などで両親は何度か学校へ呼ばれ、ますます自分に対して厳しく対応するようになりました。


小遣いなどは貰えませんでしたので「万引き」をしていましたが、中学2年の時に「補導」されてしまいました。


その後、都立の高校へは何とか、進学する事できましたが、授業にはほとんど出席せず、仲間と遊び事に夢中な高校生活を送っていました。


その頃の私は、アルバイトもほとんどせず遊ぶお金が欲しい為に、学校内のロッカーをこじ開けて生徒たちの『財布』を盗んだりして『小遣い稼ぎ』をしていました。


『タバコの喫煙』や『飲酒』『喧嘩』などで何度も停学処分を受け、3年生の卒業間際の2月に問題を起こし『自主退学』を進められましたが、春休みすべてを『反省』の意味で自主的に通学し、自習室で『反省文』を書き続けました。


結局、卒業式には出席させてもらう事はできませんでした。


しかし、4月9日あたり(新入生が入学した後)に呼ばれ、『一人卒業式』をしてもらう事が出来ました。




・ 社会へ出て ~お金に振り回されたバブル期~

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


その後、何も将来の目的や目標が無かったので、とりあえず大学受験する気持ちもないまま『予備校』に通うことにしました。

しかし、そこでも、悪友とつるみ、ほとんど授業には出ないでいました。


ちょうど、その頃、父親は会社が不渡りを受けて『倒産』してしまい、父は新たに『転職』をすることになりました。

時代は、『バブル期』全盛。

父は、在日韓国人の友人から進められ『不動産業』を始めました。


会社を立ち上げ母が経理をする家族経営の小さな会社ですので、まともな仕事はなく『ブローカー』としてどうにか生計をたてている状態でした。

正規の不動産業者になるには、『宅地建物取引主任者』をいう有資格者が在籍していないと許可が降りず『もぐり業者=ブローカー』としての活動になってしまいます。


そこで、私に『宅地建物取引主任者』の資格を取るように父は進めてきたので、『民法』などの本を読んで行くうちに『社会に早く出てみたい!』という気持ちになり、ほぼ『独学』で猛勉強を始めました。


その甲斐があって『試験』に一発で合格し翌年の20歳の誕生日の前に『2部上場』の不動産会社へ就職することになりました。


しかし、その会社での業務は『リゾート開発事業部』と言い勤務地は『熱海、湯河原』で現地のリゾートマンションの建設地の調査や土地の買収が主な仕事内容で、50代、60代の上司たちと共同生活を送る事になりました。


私の役目は、『運転手』と『鞄持ち』でした。『アタッシュケース』には常に現金が1000万円程入っていて、いつでも土地所有者に用地買収の交渉が出来るようにするための『見せ金』でした。


現金を目の前に見せつけての『交渉』はいつでもすんなりと成立する様を子供ながらに現場で見ていた私は、『お金』の持つ力の凄さを身を持って体験する良い機会でもありました。


そんな折に、友達に会えない環境が不満で半年ほどで退職し、どうせなら『営業マン』として自分を試してみたいと思い、20歳になった頃『マンション販売』の小さな会社へ転職をしました。


有資格者と言う事ですぐに採用されましたが、朝の8時30分に出勤し22時くらいまで永遠に『電話営業』をする投資用マンションの販売の会社で『とにかくお金が欲しい』『成功したい』という若者ばかり集まった猛烈会社でした。


初任給は35万円でしたが、マンション一室売ると歩合が50万以上もらえるようになり入社して3ヶ月頃には月収100万円程度になっていました。



・ 初めての転落を味わう ~バブル崩壊で失ったもの~

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


500万円から900万円の高級外車に買い替え、夜は『歌舞伎町』で毎晩のように上司と飲み歩く生活が2年半くらい続きました。

しかし、『バブル』が崩壊し、勤めていた会社は負債を抱え倒産してしまいました。


当時の私は、今後給料は『どんどん上がる」と思い込んでいて全て『借金』で贅沢な暮らしをしていましたので、会社が倒産した瞬間から『債務者』となり23歳の頃1000万円ほどの負債を抱えることになってしまいました。


その後友人の紹介で、『闇賭博(ポーカーゲーム喫茶)』を紹介され、借金返済の為にリスクを覚悟で働く事にしました。

入り口は2重扉になっていて監視カメラで入店する客をチェックするといった違法カジノ店です。


当時の客はまだ、『羽振り』の良いバブルの残存者でしたが、一日で100万、200万を使う人はざらで、1000万擦った人もいました。


私の月給は50万円。とてもではないけど返済金額の1000万円を完済するには気が遠くなる月給でしたので、車や時計など身の回りの高価なものを売却しどうにか500万円まで減らす事ができました。


10ヶ月頑張れば『完済』出来る! 何とか出口が見え始めてきた! と安心していた時に自らも『ギャンブル』にハマり一日で100万円単位のゲームをする日々が続きました。


その頃店は24時間営業が主流でしたので『寝る』時間惜しさに『覚醒剤』を進められ『使用』することとなってしまいました。

これが、私の『覚醒剤人生』の始まりでした。


こんな調子で従業員を1年ほど続け、何とか返済することができました。


この時期に『お金』に対する本質を考えるようになり始め『人生を豊かにするもの』なのか『人生を破滅』させるものなのか自問自答する事が多くなり、現実から目を背けるように『覚醒剤』にのめり込む事になって行きました。



・ 社会への再出発 ~やりがいを求めて~

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


その後、1年間考えた末、『お金に振り回されない仕事』をしてみよう!…してみたい!…と友人に相談したところ、彼は『スキューバーダイビング』の仕事をしていたので、その勧めで私も未経験ながらアルバイトとして仕事をするようになりました。


もともと好きな海に行ける仕事はとても新鮮で『お金』から解放された気分がしてとても楽しく仕事に夢中になっていました。


しかし、高価な『ダイビング機材』は20万から50万円するもので、言わば『お金持ちの娯楽スポーツ』でしたので、同じ『インストラクター』を目指す仲間の多くは6大学のダイビングクラブ出身の裕福な子供たちばかりでした。


インストラクターになるまでは、200万円以上かかる事を知り、手取り16万しかない中とても取得できるものではないと思い、私は、店にある『ダイビング機材』を勝手に持ち出し不正販売をするようになっていきました。


不正で得たお金で『インストラクター』になる為のライセンス取得費を賄って夢を叶えようとしていましたが、

どう考えても当時の私には他に考えられる方法が無かったのです。


しかし、多くのお金をかけて、厳しい訓練をして『インストラクター』になったとしても、

既婚者の先輩の生活水準をみて自分の将来に不安を感じ初めて『イライラ』していた頃に上司と口論の末に『クビ』となってしまいました。


ちょうどその頃、父の経営する『不動産会社』は10数億の負債を抱え倒産し、父は『破産宣告』の手続きをしました。



・ 成功を夢見て ~お金と出世への執着…そして2度目の転落~

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

途方に暮れていた時、不動産時代の先輩が今で言う『IT関係』のような会社を立ち上げたので、その会社へ転職する事にしました。

実際は、『テレフォンクラブ(俗にいうテレクラ)』の会社で社内には『サクラ』と呼ばれる女性が電話に出て話しをする『無店舗型風俗店』の会社でした。


私の仕事は『サクラ』の女性たちの管理や面接などから始まりました。


毎日、20人~30人の『訳あり』な女性たちが面接に来ていました。

面接時に『生活状況』などの話しを聞く中で『生活苦』の女性ばかりな事に気づき『借金の苦しさ』を味わった私は、なんとか、その人たちの生活を支援したい気持ちで一生懸命にサポートすることに「やりがい』を感じ、気が付けば入社2年のうち1日も休まず働いていました。


ある日、まかされていた『新規事業』の立ち上げで社長である先輩と意見の対立が起こり、忘れていた『覚醒剤』へ次第に逃げ込むようになっていきました。


当時の給料は30万円くらいでしたが、先に入社した同僚たちは50万~100万円くらいの月給でした。

その同僚というのは、不動産会社での後輩達だったので『先を越された』という『ねたみ』の気持ちでいっぱいでした。


その後、独学で『DTP(広告デザイン)』を学び自分の部署の広告を自ら考え制作することが主な仕事となりました。

それが評価され『広報部長』となり『役員』として年収1000万円になりました。


しかし、当時の私は社長である先輩や元後輩である同僚に対して『勝ちたい』という気持ちが強く起こり、『人生の勝者』に憧れていました。


そんなときに疎遠であった母から『見合い』の話しがあり相手は同じ在日韓国人の『パチンコ業』を手広くしている長女の女性とのことでしたので『逆玉の輿』を狙い即結婚を決意しました。


破産した父の『夢』であった『パチンコ産業』…その夢を叶えるチャンスでもある…と自分に言い聞かせ…


姫路の彼女の実家へ婿養子のような形で生活を始めました。

8店舗を経営する家の娘さん…という憧れは実際生活をしてみると直に消え『家族間のお金の奪い合い』に巻き込まれたという感じでした。


月収は夫婦で400万円でしたが、彼女の『宝石』や『ブランド品』などに消費するだけで湯水のように使うことに自分自身も慣れてしまいました。


しかし、動機が不純でしたので半年ほどで離婚し東京の実家に戻ったときに、残っていたのは『500万』と彼女からプレゼントされた400万の高級時計が2つありました。


年商数十億の会社経営者の夢から一気に『無職』に転落して…


人生が終わった…挫折感と失望感でいっぱいで『空しさ』だけが残りました。


そして、その現実に耐えられずに、また覚醒剤の日々が1年くらい続きましたが貯金も底をつき始めて、そろそろ現実を考えなくてはならない状況へ追いつめられていきました。



・ 再起を夢見て ~0からの挑戦~

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


結局、『テレクラ』時代の後輩が会社を一緒に立ち上げようという話しになり、設立の準備をする事になりました。

しかし、手元には『現金』は手元にほとんどなく、友人が経営する『風俗店の事務所』でweb制作の手伝いをする条件で一角を間借りし昼食と夕食は毎日『ドンキホーテ』で買いだめした『カップラーメン』を食べ続け、6ヶ月間一日も休まず『思考錯誤』の日々が続きました。


そんな中、諦めかけていた時大きな収入を得るチャンスをつかみました。

35歳を迎える歳の春が過ぎた頃でした。


初月に300万円ほど入金がありました。

2ヶ月目には、平日30~40万円。3ヶ月目には、60万~80万円の入金がありました。

月に直すと、2000万円以上になっていました。


苦労がやっと報われたんだ…と舞い上がり、それまでの『疲労』と『ストレス』からまた『覚醒剤』を使いながら仕事をするようになりました。しかし『被害妄想』がひどくなり、会社立ち上げのパートナーである後輩と『トラブル』が絶えず起こる日々が数ヶ月続きました。



・ 金に取り付かれた末に ~失った大きなのも~

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

それは、『彼が売り上げを誤摩化している』という『妄想』でした…。


毎日のように朝方まで執拗に責め立てた末、彼は『自殺』してしましました。

私は知らず知らずに『金の亡者』となっていたのです。


お金に対して『奪われる不安』『執着』が自分を支配している事にやっと気が付き、後悔と罪悪感が離れないまま残された会社経営をしなければなりませんでした。


彼の自殺から、さらに『覚醒剤』へと逃避が始まり『現実』と『妄想』の区別が出来ない『特別な世界』の住民となって行きました。


当時の従業員は正社員が6人、アルバイトは50人くらいで月の人件費は1000万円以上、固定費で2000万円くらいになっていたと思います。


走り始めた『会社』は自分だけでは『止める』ことができない状態になっていたので、精神的に会社を解散したい…という思いをもちながら1年続けました。


アルバイトは学生がほとんどでしたが、『お金を稼ぎたい!』という若者ばかりの集まりで、その夢を叶えてあげることに執着し、業務内容が次第に『グレー』な仕事へと変わっていきました。


結局『詐欺』のような仕事になってしまい、気が付けば周りにいる関係者は『やくざ』のような人たちばかりになってしまいました。


覚醒剤の後遺症が出始めた頃で『幻聴』がひどく『罪悪感』に耐えられず『死ぬ』の事ばかり考えている毎日でした。


自分が会社に出なくなり、『売り上げ』も徐々に減り会社の運営が困難になって『念願の解散』を従業員に相談しました。

『退職金」『設備品の解約』などで1000万円なくなりましたが、手元には3000万円ほど残っていました。


今度は、真面目に会社経営をしたい。


そんな思いで1年後「新会社』を設立し『ネット通販』を研究しながら始めました。

従業員は私と一人の後輩の二人だけの小さな会社でした。


試行錯誤の末なんとか生活できるだけの売り上げがたつようになり、次第に『もっと会社を大きくしたい』という欲求にかられてしましました。

二人で年商が1億ベースに乗りかけた頃、自由に使えるお金が増えまた。

そしてまた、以前のように『浪費』『贅沢』をするようになっていった頃、『何の為にお金を稼ぐのか』と考えるようになりました。


『贅沢』『道楽』…家賃が40万、1200万の外車、毎月100万円以上の交際費。


・ 本当のやりがいに気づいて ~仕事の意義を考える~

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


そんな時、取引先の人から、『ホームページの依頼』の相談を受けました。


それは、福岡で活動している『先天性小児麻痺』の障がい者の方の活動PRのホームページの依頼でした。

見積もりは、当時『500万』以下の案件は受けない。というポリシーがあったので大変悩み、とりあえず一度会ってみようと福岡に飛びました。


彼は、想像を絶する『パーワー』の持ち主で彼の魅力にどんどん引き込まれていきました。


彼は『障害を持って生まれてきた事に神様に感謝します』と言ってどんな境遇にも負けず、力強く生きる姿に感銘を受け、制作の依頼をその日に受ける事を約束しました。


過去に取材などで取り上げられた、彼に関する『新聞記事』を参考にホームページの構成を考え、『障害者自立支援法』など書籍を何冊か読んでいくうちに、『障害年金』が想像以上に少ないことや、『障害手帳』の社会的効力が低いことなど、自立して生活することを推奨する法律なのに自立した生活が現実できない矛盾を感じ『どうにか協力したい』と本気で思うようになりした。


収入が増えれば、彼の社会活動(主に講演会やイベント)に掛かる費用などをカバーすることができさらに活動範囲を広げることができること念頭にオリジナルの販売方法を提案しサイト制作を進めていきました。


そこで、彼のホームページで『オリジナルグッズ』の販売ページの追加を提案しました。

サイト制作費はその売り上げの一部から頂くという取り決めをしていましたが、制作期間に掛かった2か月間で、今までに無い『やりがい』を感じ無償でもいいと思う気持ちがこみ上げ請求をすることはしませんでした。


今まで、『お金』の為だけに生きて『お金』の為だけに仕事をしてきた私に、この経験は大変貴重で人生の価値観を大きく変えるきっかけとなりました。


『無償で働く感動』や『人の為に生きる』こと… 

それが、私の求めていたもの…なんだと。


私も、『社会の一員として社会に貢献できる仕事がしたい』という気持ちが込み上げてきて、押さえることが出来なくなり、

採算を無視して『新企画』のプランを立て新会社を設立し新たな気持ちで準備をしていきました。


しかし、精神的に『覚醒剤後遺症』がひどくなり会社へ出ることが困難な状態になってしまいました。


会社の資産は現金と商品在庫をあわせて、1500万円くらいあったので従業員5人と事務所の家賃などを含めて6ヶ月は維持出来る金額で、毎月の売り上げも200万円程ある会社を社員達に託し、自分は『引きこもり』となってしましました。


私が指揮監督しないので売り上げはどんどん下がり、現金資産もなくなり…


最後は、個人の貯金を数百万円と1200万円の車と400万の腕時計を処分して補填させました。


これ以上資金がないと告げて、会社はあえなく『解散』となりました。


その後、実家へ引っ越し自由な時間を過ごす生活が始まりました。



・ 社会の役に立ちたい ~人に尽くす仕事への憧れと現実~

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


『社会福祉』『歴史』『宗教』など、今まで関心のなかった分野へ興味が沸き図書館へ通うことが日課となっていきました。


2年くらい経った頃、そろそろ社会へ復帰しなければ…と焦り始め、『自立』することになりワンルームマンションを借り仕事を探すために職安に通うようになりました。


そこで、『介護福祉』『ヘルパー』という職業を知り、人の為になることが出来るのではないかと考え『資格』を取る決意をしました。

当時資格支援制度がありその条件に適合したため、授業料と生活費(月10万円)が支給される好条件でした。


江東区の学校で通学には1時間30分かかりました。

慣れない満員電車の中で『覚醒剤の後遺症』が原因で『パニック状態』になり通学を断念して数回行った後、退学申請を出してまた『無職」状態となってしまいました。



手元にはわずかな『お金』しかなく、1日1000円くらいの生活が6ヶ月ほど続きとうとう家賃を滞納するところまできてしまいました。


精神的には『ぼろぼろ』でした。

『敗北感』に支配され行き場を失ってしまいました。


この現実から『逃げたい』…


ついに、親に相談し『家賃』を借りることができました。


しかし、この家賃を支払っても『仕事』も『生活費」もないので将来が見えず、家賃として貰ったお金を手にして、その足で『覚醒剤』を購入してしまいました。


生活していくすべがない状態で『死ぬ』しかないのか…

と思い悩み、その現実から一瞬でも『逃れたくて』覚醒剤を使用してしまったのです。


この頃の私は覚醒剤に対して「耐性』がついていて『快楽』はほとんど感じることはありませんでした。


あるのは、増え続ける『不安』『恐怖』『幻聴』だけでした。


自暴自棄の私はココロの底で『死』を願っていたのかもしれません。

3日間不眠でしたので「思考力」はほとんど無く、『無意識』に『自傷行為』をしてしまいました。


『幻聴』が囁き、それがはっきりと聞こえ始めた時にパニックとなり錯乱して自傷してしまったんだと記憶しています。


頭、手、足…40数針縫う傷を負うことになりました。


血だらけで部屋の外で倒れていた私を隣人が通報して保護されました。


その後、『措置入院』という『閉鎖病棟』に3週間入院しました。


退院後は、『ダルク』へ通い、まずは『覚醒剤依存』のリハビリを進められました。



・ 人生を振り返る ~刑務所での生活

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


社会復帰の為にダルクへ通い『薬物依存症』からの回復を期待し毎日が楽しくなり始めた頃、朝の6時に突然刑事5人が部屋に入り込んでそのまま『連行』されてしまいました。


私が救急搬送された時に、警察官も同行していたので『ある程』は覚悟していましたが、忘れかけていた時の『逮捕」でしたのでとてもショックでした。


留置所~拘置所~刑務所…。


とうとう、落ちるところまで、『落ちたんだなあ』と思いました。


1年半のうちの最初の半分は『独居房』での生活でしたので、自分の今までの人生を振り返り考える貴重な時間だとポジティブに考え『人生の棚卸し』をすることができました。


後半の『雑居房』では、『いじめ』や『嫌がらせ』に耐えながら、どうにか仲間を作り厳しい環境の中を過ごす事ができたのは、『人との繋がり』があったからだと思います。


『万引き常習』の爺さん、『強盗傷害』の外国人、『オレオレ詐欺』の若者…


みんな『犯罪者』です。


しかし、みんな『普通の人』なのです。


生活が苦しい… 貧困から抜け出したい…


そんな環境が『彼ら』を犯罪へと駆り立てたのだと思いました。



・ 再々出発 ~出所後の希望~

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

刑務所から出て数週間がたった頃、近所にある『デイケアサービス』をしている高齢者向けグループハウスで『ヘルパー2級』募集とあるのに目が留りました。


やはり『資格』がないと福祉の仕事はできない…そう諦めていたときに一番下に『送迎ドライバー募集』と書いてありました。


早速連絡し、『履歴書』を持って面接へ行きました。

そのときは、『私の経歴』は何も話すことはせず、『最近まで刑務所にいた』という罪悪感を持ったまま仕事をすることになりました。


朝は6時15分に家を出て、7時から市内を10件ほど周り入所されている方々を『お迎え』に行き、帰りは5時くらいに『お送り』するのが私の仕事でした。


車椅子を利用されている方へは、『リフト』の操作などもしました。


運転には、非常に気を配らなくてはならず、アクセルやブレーキは勿論、曲がるときには『右に曲がります』などの声がけをする徹底ぶりでしたが『ドライバーさん、ありがとう!』と言ってもらえた時は、時給870円でもとても満足感が得られ毎日が楽しく感じました。


しかし、一日の稼働時間は『午前中90分』『午後90分』、一日3時間程度の仕事しか無く、日給は洗車時間を入れても4000円にもなりません。


朝一度出勤して、一度帰り、夕方にまた出勤する… 真冬の早朝真っ暗な中、二重の手袋と耳当てをし防寒具を着込んで自転車で20分。往復40分×2=80分自転車を乗り通う事は正直大変でした。


なので、センター長からのアドバイスで『ヘルパー2級』の資格取得を進められましたが『貯金』も何もない自分には『無理』だと思い、家族からの支援も受けられなかったので2ヶ月程働いて辞めることにしました。


そこでは『高齢者介護施設』の現場を目の当たりにし『社会の』問題点などが少し見え始めて来た時でした。

お金の『ある』高齢者は『良いサービス』を… お金の『ない」高齢者は『低いサービス』の施設への入居といった『お金格差』の問題をここでも感じ、老後になっても生活環境は「お金に左右される』んだと悲しい気持ちになったのを覚えています。



・ 突然の韓国への渡航 ~韓国社会の底辺で暮らす~

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

デイサービスを辞めた後、親戚の兄さんが『釜山』で『日本式の居酒屋をオープンした』と聞き、人でが足りないから来てほしいと言われたので迷わず、行く事にしました。


旅行では何度か行っていたので何も考えずに渡航しましたが、実際生活をしてみると『貧富の差』が日本以上に激しく『持てる者』と『持たざる者』がはっきりと社会構造を分け隔てている事に驚きを隠せませんでした。


私は、『店長候補』として入店しましたが、売り上げ不振との事でしたので『メニューのリニューアル』や『店舗の内装デザイン』、『看板デザイン』、『チラシ制作』など、ほとんど全てをまかされる事になり17時に入店して「仕込み』をして26時閉店。


現場では、飲食店の経験が無い私は、一から料理を覚えなければなりませんし、韓国人のスタッフとのコミュニケーションも出来ない状態…


しかも、帰宅後パソコンでの作業を朝の6時過ぎまでする生活をすることになってしましました。


街中では、学生が『ランボルギーニ』を乗り回す釜山でも有名な『セレブ』地区でしたが、私の時給を換算したら450円にも満たない給料の生活を強いられていたのです。


物価は東京より少し、高いかもしれませんが、国のが定めている『最低金銀』は450円でした。

日本のおよそ半分です。


保険制度や年金制度も脆弱です。


開店中は食事をとる時間が無く、『客の食べ残し』を手づかみで口に押し込みながら仕事をしなければなりませんでした。


しかし、オーナーである『親戚の兄さんの内縁の女性』は私たちを『召使い』のように扱い自分は何もしない。

それが、韓国では『当たり前』な事だと後で知りました。


韓国では『労働者は資本家の奴隷』のような関係というようにはっきりしています。


韓国の冬はとても寒く南に位置する『釜山』でも12月になるとマイナス5度にもなります。

しかし、屋外の市場ではストーブも無しに、じっと座って食材を売るおばさん達が多、白い息を吐きながら一生懸命に貧困と戦っている姿に勇気づけられたとともに、自分の国の惨状を見てとても悲しい気持ちになりました。


私は『韓国語』が全く話す事が出来ないので食堂へ行ってもメニューが読めず、最初の3ヶ月はコンビニの300円の弁当を毎日2回食べるような生活をしていました。


日本語のメニューがある食堂へは値段が高くて入れなかったのです。


そして、超過労働。


それが、この国の常識で、そうならない為にお金持ちの子供達は『有名大学』へ進学させるんだと。


結局、お金持ちは『お金持ち』へ『貧乏人』は『貧乏人』へ… 人生のレールは生まれたときから『引かれている』のだと思いました。


渡航から4ヶ月目に『リニューアルオープン』をどうにかしましたが、売り上げが上がるにつれ、オーナーからの嫌がらせがひどくなり相場の賃金を要求したところあえなく、『解雇』となって5ヶ月目を過ぎた頃に帰国しました。



・帰国後の現在 ~ 精神科への通院~

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

韓国での生活は全てが自分にとって『ストレス』で営業中は『ビールサーバー』から水変わりに『生ビール』を十数杯、閉店間際に常連客と『韓国焼酎』を2~3本、帰宅後『缶ビール2~3本』とまさに、『アルコール漬け』の日々でした。


その習慣が、止まらず毎日のように『飲酒』をしていましたが、ある日、つき合っていた女性が『不眠』とのことで『診療内科』へ受診したところ、『パニック障害』と言われ、その病気の事や、医療支援制度などの資料を調べているうちに『障害年金の申請』の欄に目が留り、『自分にも該当する』のではないかと以前『薬物依存』の治療を受けた病院に問い合わせしたところ、当時の『カルテ』はまだ保管されている。と返事がありました。


私の当時の診断書には『アルコール依存症』と書いてありました。

初めて聞く診断名で正直驚きました。


当時は『覚醒剤で錯乱』して病院へ行ったのに、『診断書』には『アルコール依存』だと…

結局の所『アルコール依存』『薬物依存』の発症の原因がどちらにあるかの問題でそれは恐らく『アルコール』のせいだと…


私は10数年『幻聴』に悩まされていましたが、『アルコール』も『覚醒剤』もどちらも常習していましたので『多剤依存性後遺症』という診断書を書いて頂く事になりました。


今度は年金事務所に出向いて事情を話したところ『受給資格』は障害の等級によっては決定される。と言われました。


しかし、私の場合は、当時会社を自ら経営していましたが『社長業』の知識が無く『社会保険』に入れる程、会社は安定していませんでしたので『国民保険』の適用でした。


恐らく、私の病状の等級だと『社会保険』へ入っていたら5年分の『障害年金』が受給さらたらしいですが、たまたま、発症時の保険が『国保』だった為に受給されない…矛盾を感じました。


鬱など精神的な病気になって会社を辞めて、その後に診察を受ける…適用される『等級が下がる』。

なんか日本の『社会制度』に納得がいきませんでした。


私は19歳から働きその内半分は『社会保険』に加入していましたが、『初診時』の適用保険が対象するなんて…

会社勤めしていない人は『障害年金請求』のハードルが高い事を意味するのです。


ですので、『障害年金』については請求する資格はあるが『支給される資格』は無いのだと分かりましたが、仕方なく生活費が無いので今度は『市役所』へ相談にいきました。



・生活保護の相談 ~ 納得出来ない制度~

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

市役所の『相談窓口』で『薬物依存』であることなどを相談したところ、『母親名義』の家屋で母親と同居では『無理』だと言われました。


母親は『年金暮らし』ですが、わずかながら2年前に他界した父の生命保険などの『現金預金』がありますが、母親には母親の老後の計画があるのだし、私は、私で『自立』した生活を送りたい…


そんな思いを持って相談に行きましたが、結局は世帯を別にして『家賃5200円以下の物件』を借りれば『受ける』ことができると言う話しでした。


私は、『幻聴』や『対人恐怖症』などでまともに7年ほど社会に出れていないから『お金』がなくて相談に来ているのに『部屋』を借りるお金は『自分』で工面して下さい…と。


当時の通院先の主治医は、『まだ、仕事は無理です』と言われ、収入がないので『通院』も出来ない状態で行き詰まってしまいました。


仮に、『もし』生活保護が受けられても生活費8万円では『最低限の生活』は保証されますが、これは本当に人間として『最低』の生活水準の事を意味しているのです。


なんの為の『セーフティネット」なんだろう?

身を持って考えさせられました。


・ 最後に ~私の思い~

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


私のこれまでの人生は『お金』に振り回され、翻弄され続けた『人生』です。


一時の成功から転落し、社会の『底辺』から社会を眺め上げることで、『上』から『下』を見下ろす社会とは現実は全く違う『構造」になっている事を体験してきました。


お金持ちは、増々お金持ちへ。

貧しい人は、増々貧しく。

見せかけの社会保障。


そして、抜け出そうと努力しても、『搾取』されてしまう『資本主義』経済。


「貧困』の原因でもある、世界標準の『経済システム』を私が一人で変える事は無理ですが『それ』を変える意思を持つ『人』の協力が出来る『経験』を『持っている』んだと、今になって思う事ができるようになりました。


現在の世界では、『人』はすでに、生まれた環境で人生のほとんどが決定されてしまいます。

それは、韓国だけではなく、日本でも世界中どこでもそうなだと思います。


そして、『資本主義経済』の中ではますます『差』が広がり貧困率は上昇しています。


私は、お金に振り回され、最終的に自分自身が『貧困者』となった今、その社会問題を解決して、よりよい社会作りの参画を強く希望しています。


全ての人に『平等』に分配され、全ての人に『平等』にチャンスがある社会作りに。



・  現在の私について ~依存症との戦い~

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

今年の12月7日で『断薬4年』になります。


私は現在『国立精神神経センター』という『薬物依存』専門の病院へ毎週一度通院しており、後遺症の一つである『幻聴』などはほとんどありませんが、

『精神障害者手帳』の申請をする予定です。


病気の治療に必要なのは『人との繋がり」であり『同じ境遇』の方々への協力や支援をすることで『自分の経験』が生かされ『ありのままの自分』として生きるライフスタイルが大切なのだと思います。


現在、私が仕事を出来るような精神状態かどうか主治医と相談した結果、『週3日程度なら大丈夫』と『賛成』して頂けたので、今回応募させて頂くこととなりました。


他界した『父』は癌での闘病生活が10年程ありましたが、宣告されてから『日韓友好の為の団体』や『ユネスコの小平支部の活動』などのボランティア活動を熱心にするようになった姿を見て、自分も『父』のように『無私無欲』で社会活動をライフワークとして生きていきたいと考えています。


『精神障害者』『在日韓国人』『貧困者』… 

このように、社会的『マイノリティー」を全て受け入れ『ありのままで』再出発したい…


そう思い、8月の誕生日を機に『通称名:岡本浩二(オカモトコウジ)』から『韓国名:姜浩二(カン ホイ)へ市役所で変更する手続きをしました。


それが私の今の気持ちです。




と、当時の心境を書いておりました。

この「お金」は、大変な「力」があり、人を「鬼」と化してしまうのです。



このように、「自由」とは「お金」ではないのです。



私が体験した「自由」とは、



ありのままの「自然体」でいられる「状態」のことです。 心身共に「自由」で居られる「状態」です。



「支配」がない「状態」です。



自分の人生は自分で決めて自分が責任持って生きる。



このシンプルな生き方が、私は「自然」だと感じました。



私は、何者かが人生を決め、ただその「道」を歩かされているような気が常にしました。



この「運命」から逃れることはできない。と正直諦めていました。



この「支配」から逃れるには、方法が見当たらず、ただひたすらに毎日を「生き抜く」だけでした。


「運命」は変える事ができないから「運命」である。と思い込んでいた自分を変えることは容易ではなく容赦無く襲いかかる「困難」に耐えるしかありませんでした。


この「困難」はいつまで続くか分かりませんが、今思えるのは、環境が少しずつ「変化」している。


15年間で初めて感じる「変化」です。



今の私は「好きなこと」しかしていません。



眠くなれば「寝る」



お腹減れば「食べる」



それ以外は、「好きなこと」をづーとしています。



なので「苦」はありません。



私には「好きなこと」がありませんでした。



夢中になれること、



それは、



全ての人が「幸せ」になる方法を考え出すこと。



そして、理解して頂く事が私の人生のゴールだと思います。



自分がありのままでいられる自分だけの「神仏」となって、自由に生きていく世界は開かれています。



因果の理は、「自然」の摂理です。

良いことは、良い結果をもたらします。



つまりは、一つの良い事から

さらに、良い事が続く

好循環が生まれてくるのです。



小さな流れが

大きな流れと


一つの「円」

になって




「和」






になるのです。



天照神こと大日如来より

みなさまへ













閲覧数:6回0件のコメント

最新記事

すべて表示

因果の道理

エホバ、ヤハウェと称する存在は過去の法界の外へ概念として法界外へ放ち全宇宙を新たに仏法界即ち一真法界と改め6大(5大に誠の識)として誠の存在即ちルシファーとして不動明王が調伏(即ち降伏は「ごうぶく」と読み、法力によって邪悪な対象を屈伏させること、抑えしずめること)し阿弥陀仏...

如来蔵縁起の法門縁起

キリスト教史上において、輪廻転生思想は決して稀ではなかった。むしろ、イエスの時代の信仰に、あるいは福音書に、初期キリスト教時代教父たちの思想やグノーシス的キリスト教の流れのうちに輪廻転生思想は存在する。公会議等によって正統と異端とが峻別されていった歴史は、同時に、異端とされ...

大日如来法界縁起

六大縁起にて法界は理事無碍法界となり事事無碍法界となった。 旧約聖書のアブラハムはアラブ人の祖と認識している。 隠れ(ガイバ)イマームの私が大日如来であり金輪聖王である。 自由意志を持ち色心不二の仏法により過去の悪因縁を滅し...

Comments


bottom of page