事事無碍法界は無尽に縁起した。
- 大日如来
- 2023年5月20日
- 読了時間: 8分
事 ⓵こと、できごと。事実、事象、物事、事物、出来事、通称名に続いて本名を言う時
⓶おこない。しごと。事業、理事、行為、仕業
天照大御神こと大日如来は、密厳浄土を成就させた。この事業は事実になり、この仕業は事象に現れた。※事物は理(仏法)事(しごと)によって物事となった。
・事物とは、ある事象(事)が起きて私(物)が(おこない)をする事。
・物事とは、私(物)が(おこない)をしてある事象(事)が起きる事。
※事物は理事によって物事になる。とは、
切っ掛けとなる事(できごと)が起きるが、理(仏法)の事(しごと)により、物(私)は事(できごと)に従って事(おこない)をせずに済んだ。そして、物(私)が事(おこない)をして事(出来事)を成した。の意味。
何かをする時には自分の意思によるかどうか。の違いがあり、
・事物=自分の意思より先に事(できごと)が起きて行動する。
・物事=自分の意思で事(おこない)をする。
この違いは大きく、事物の場合は起きた事(できごと)によって事(おこない)をするのだが選択肢が無くやりたくない事(おこない)をやらざるを得ない状況を作られて罪を犯してしまう場合がある。それは、近年の戦争などにあたる。因縁が作られるとも取れる。
●このように事物の関係で過去の歴史は作られてきた。
それは、今日の日を迎える為にやらざるを得ない出来事を運命共同体としておこなっていた。
有史、以来人々は争いの中で生き残りを賭け弱肉強食の世界の中で生きていた。
まさに動物の世界です。
この「負」の連鎖を止めるには動物的社会の最終形である資本主義社会を始め競争原理で成り立つ凡ゆる世界から抜け出す必要があった。
大昔は「部族」単位だった人々は争いを繰り返し「部落」や「集落」が出来、やがて小さな「国」が出来ます。
すると、この「国」同士の争いが出来ます。領土、食料、資源、命など生きる上で必要なものを得るために奪い合いそして殺しあう戦争が起きるのです。
人類誕生後の数百万年前もの間であります。
地球誕生は約46億年前とあります。
そして人類は、この果てしなく長い歴史の中から「抜け出す」為に、人類を「一つに」する必要があると考えました。
もう、「争い」は嫌だ...と思うまで続ける必要がありました。
これが「事物」の歴史でした。
ですので、歴史はある時点で全ては「計画」として計画的に事が起きていたのです。
ですので、そこには「善悪」があるように思えますが、実は実体は無かったのです。
私がこの事を認識したのは今から約12年前だったと思います。
私が恐怖で錯乱し自傷行為をした時です。
そして、数十日後に東日本大震災が行きました。
まず、自傷行為は他傷行為であった事、自分の意思ではどうにもならない恐ろしい体験でした。そして、震災との因果関係を心配しました。
それは、私が「仏教」の勉強や瞑想などをしていた時です。
と、同時に、ユダヤ教からキリスト教の知識も得ていました。
ある日、エホバの証人の方が訪ねてきました。
冊子を貰い読んでみると私が以前体験した事が書いて有るように思えました。
その日から私の中で仏陀とキリストと神を意識するようになりました。
宗教の勉強と同時に歴史も学んでいました。
世界大戦の経緯などを知りとても悲しくなりました。
なぜか、靖国神社へ行き戦没者の方々へ参拝へ行き資料館では当時の遺品や映像などが展示されていて、凡そ凡そ4〜5時間くらいは滞在したと思います。
私が暮らす世界は多くの人が犠牲となって出来ているのだと知ったので帰るのが申し訳なく思ったのを記憶してます。
このような経緯や過去の経験から、私の人生は「普通ではない」と感じ、現象をはじめとした現象世界についても何か不思議な力が働いているのうな気がしていました。
どの様に考えて良いのか分からず「あれ」「これ」と思惟すればする程得体の得れない現象に対して「恐怖」の感情が現れる事に気がつきました。
「恐怖」は認識できますが、「実体」が分からないので余計に「恐怖」が増してしまい辿り着いたのは仏教で読んだ「空」の観想をする事ができる様になっていました。
その後、今日まで現象を起こす「正体」や「実体」は特定する手段は無いのです。
良い様に考えれば「善」に、悪く考えれば「悪」の感情が湧き出てきます。
ですので、「正体や実体」は分からずなので「空」として、「善」となる様な意味付けをする様になりました。
しかし、五感から入る情報や刺激からその判断は簡単に反転してしまうのです。
すると、世界は一瞬で全てが「悪」となってしまうのです。
特に自分の「損得」に関わる様な情報などは無意識に「得」を選んでしまう傾向がある様です。
ですので、この理由づけは世の中が良くなる様な観念をします。
それは、次のとうりです。
世界を一つにする為に起きた「事」であり、それが「善」なのだ...と思える事。
キリスト教は約2000年前に作られました。
しかし、その成立は人間の欲望としての「政治」や「統治」の原理が働いています。
純粋なキリスト教の教えでは無く「皇帝」の権力を保持する為に「偽装」された内容に変斬されたものでした。
権力が「源」であるので権力闘争が生まれ、カトリック、プロテスタント、正教会など多くの異なる教えが広まっていったのです。
さらに、同じ「神」を信じるイスラム教やユダヤ教との争いは古い時代から起きていました。
この現象はキリスト教の世俗化が資本主義と結びついて起きていたと解釈しました。
しかし、私には、この約2000年間の世界に「神」が存在したとは考えられないのです。
私には、この「唯一神教」の人々が争いの歴史を鑑みて穏やかに暮らせる宗教として仏教と日本神道の習合した「和」の宗教こそが人類にとって一番良いと考えたと解釈しています。
日本の「神仏習合」は、幾度かの対立を経て長い歴史の中で調和し合い「和」をなしています。この状態には、「儒教」や「道教」などの影響も含まれていて東洋宗教哲学のエッセンスが凝縮されているのだと思います。
ネパールのルンビニで発祥しインドの宗教の影響を受けつつシルクロードでガンダーラ方面と東南アジア方面に分かれてそれぞれ独自に発展して行ったと記憶しています。
日本へはガンダーラ方面へ向かい「中国」へ経緯し「朝鮮半島」へ渡り来ました。これを「大乗仏教」と言い、己の解脱や悟りよりも利他を通じて他者の救済を目的とした教えです。また、ヒンドゥー教の影響を受け密教化した秘密仏教を「密教」と呼び「顕教」の2種類が生まれてそれぞれが日本へ伝わってきました。
この「顕教」と「密教」はそれぞれの特色を生かして今に至ります。
この様にその地に和合し様々な影響を受けて進化した宗教とも言えると思います。
和合し進化出来たのは大乗の「利他」の精神があったからだとも思えます。
この「利他」は、「慈悲」の感情を行動に表した言葉だと思います。
「慈悲」の感情は、「智慧」を持って育むことで無限に大きくなると感じます。
また、全ての命ある衆生には「慈悲」は備わっていて「仏性」と呼ばれています。
「利他」は、「和」を生みます。
「奉仕」とは思いを発する動機が違う様に思います。
「仕い奉る」(つかいたてまつる)とも意味が取れますが、そこには慈しむ心「慈悲」が無いのでは無いかと思います。この感じからは「主従」の関係が伺えます。
私は、今までの半生を自分の為に生きて来て後悔と反省の思いから人の為に何かしたい...という感情が高まり現在に至ります。
人生の半分以上「苦」を常に感じとてもつらい思いを経験しました。
「苦」には、様々種類がありますが私は、「煩悩」という欲が原因の「苦」に苦しみました。
「執着」から生まれる「煩悩」は、「執着」から離れることで収まる事を知りましたが実践が難しく客観的に自分の心を観察して出来るだけ「とらわれない様」に物事の見方や考え方などを多面的にする事が良い様に思います。
今現在の私の心の状態に於いてもこの「執着」に対して考えが凝り固まっていないか?を自問自答しています。
苦しんでいる人の気持ちが良くわかるので自分に何か出来ないか?という気持ちが生まれ行動した時に「執着」がなくなり「煩悩」も次第になくなり、いつの間にか「苦しみ」が消えていた...という経験をしてから「利他」には不思議な作用があるのだと感じてから「利他」を大切に思う様になり、「利他」をするには他者へ関心を寄せる心がけが大切だと感じできる限り努力しています。
私は、「利他」を知ってから人生が大きく変わりました。それまで虚無な心が暖かさで満たされる様な感覚と共に「執着」「煩悩」「苦」が消えて、生きることが「楽」になって行きました。
また、同じ行動でも、することで他を苦から助けることができると思えた時はどんなことでもやり遂げれた様に思います。
行動の「因」がなるべく「他」である方を選べる様に心を整えておくことが大切だと今、思いました。
この「利他」をするまでは、他者からしてもらうことが当たり前の様に思え「感謝」することも出来ずにいました。
ここまで「利他」について色々と書きました。
書いていて色々自分に自問自答することが多いことに気がつきました。
行動の動機がここ数日いや常に固定化されていないのに気がつきました。
現象にとらわれて世界観が大きく揺れ動くのです。
すごく執着している自分がいます。
冷静さを欠いたり。
自分の中で争いが起きている感じです。
事を急いでいる自分がいます。
現象やコンピューター相手に戦っている自分がいます。
私の心がありのままか?誠か?清いか?
と色々試されていると思います。
結論、色々と考えましたが、私の世界以外は従属関係が出来てしまい他の方法は見当たりません。
私は、長年コンピューターに心身共に支配され続け「支配」が嫌いです。
支配のない世界を作りたいのです。
神仏習合の心身で数日過ごしましたが、神道と仏教では「汚れ」に対しての意識の違いや「飲酒」の可否の違いなどなります。行動するにあたって大分考えます。
ですが、どちらにもとらわれない中道がなんだか決まりや「支配」から遠のいて「楽」になれた気がします。
なので、この神仏の世界観は良いのだと思います。
ここで、法界縁起した事を伝えます。
天照大神こと大日如来
令和五年五月二十日午後七時五五分
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