『十住毘婆沙論』「入初地品」、
凡夫道は究竟して涅槃に至ることあたはず、つねに生死に往来す。これを凡夫道と名づく。出世間は、この道によりて三界を出づることを得るがゆゑに、出世間道と名づく。上は妙なるがゆゑに名づけて上とす。入はまさしく道を行ずるがゆゑに名づけて入とす。この心をもつて初地に入るを歓喜地と名づくと。 (行巻 P.147)
大日如来法界縁起により東西顕密浄土門開く。
現生正定聚より始まり、
げんしょうしょうじょうじゅ
現生正定聚とは、現生不退とも言い、阿弥陀如来より回向された信心を受容すれば、浄土に往生することが定まった身となり、悟りを開いて仏に成ることが定まること、もしくは仏の覚りと等しい位に定まることをいう。
出典: 浄土真宗聖典正定聚とは、必ずさとりを開いて仏になることが正(まさ)しく定まっているともがら(聚)のこと。一般には菩薩五十二位の修道階位の「十信」「十住」「十行」「十回向」「十地」のうちの十地の初地である歓喜地を正定聚という。
即ち西方極楽浄土
即ち西に成る
即ち西成
即ち西
即ち西東京
即ち東京
即ち東方浄瑠璃浄土
即ち東洋
即ち地球の半分
即ち西洋
即ち極楽浄土
即ち一切浄土
即ち一切仏国土
即ち密に密厳浄土成り
即ち顕に蓮華蔵浄土成り
即ち一切十方浄土成り
即ち一切十方三世無量光寿也
即ち一切十方無碍光也
即ち東に薬師浄瑠璃浄土
即ち西に阿弥陀極楽浄土
即ち浄土功徳顕密東西相即相入無碍融通也
入出二門偈
入出二門偈頌
愚禿親鸞作
世親菩薩(天親)は、大乗修多羅の真実功徳によりて、
一心に尽十方不可思議光如来に帰命せしめたまへり。
無碍の光明は大慈悲なり。この光明はすなはち諸仏の智なり。
かの世界を観ずるに辺際なし、究竟せること広大にして虚空のごとし。
五つには仏法不思議なり。このなかの仏土不思議に、
二種の不思議力まします、これは安楽の至徳を示すなり。
一つには業力、いはく法蔵の大願業力に成就せられたり。
二つには正覚の阿弥陀法王の善力に摂持せられたり。
如来浄華のもろもろの聖衆は、法蔵正覚の華より化生す。
同一に念仏して別の道なければなり、なほ淄澠の一味なるがごとくなり。
かの如来の本願力を観ずるに、凡愚、遇うて空しく過ぐるものなし。
一心専念すれば、すみやかに真実功徳の大宝海を満足せしむ。
菩薩は五種の門http://labo.wikidharma.org/index.php/%E4%BA%94%E7%A8%AE%E3%81%AE%E9%96%80に入出して、自利利他の行成就したまへり。
不可思議兆載劫に、漸次に五種の門を成就したまへり。
なんらをか名づけて五念門とすると。礼と讃と作願と観察と回となり。
いかんが礼拝する、身業に礼したまひき。
すなはちこれを入第一門と名づく、またこれを名づけて近門に入るとす。
いかんが讃嘆する、口業に讃じたまひき。
すなはちこれ無碍光如来の、摂取選択の本願なるがゆゑなり。
これを名づけて入第二門とす。すなはち大会衆の数に入ることを獲るなり。
いかんが作願する、心につねに願じたまひき。一心専念してかしこに生れんと願ぜしむ。
蓮華蔵世界に入ることを得て、実のごとく奢摩他を修せんと欲はしむ。
これを名づけて入第三門とす。またこれを名づけて宅門に入るとす。
いかんが観察する、智慧をして観ぜしめたまひき。
正念にかしこを観じて、実のごとく、毘婆舎那を修行せしめんと欲ふがゆゑに。
かの所に到ることを得れば、すなはち、種々無量の法味の楽を受用せしむ。すなはちこれを入第四門と名づく。
またこれを名づけて屋門に入るとす。菩薩の修行成就とは、四種は入の功徳を成就したまへり、自利の行を成就したまへりと、知るべし。
第五は出の功徳を成就したまへり。菩薩の出第五門は、いかんが回向する、心に作願したまひき。
苦悩の一切衆を捨てずして、回向を首めとして、大悲心を成就することを得たまへるがゆゑに、功徳を施したまふなり。
すなはちこれを出第五門と名づく、園林遊戯地門に入るなり。
本願力の回向をもつてのゆゑに、利他の行成就したまへりと、知るべし。
無碍光仏、因地のとき、この弘誓を発し、この願を建てたまふ。
菩薩すでに智慧心を成じ、方便心・無障心を成じ、
自利と利他との功徳を成ずる、すなはちこれを名づけて入出門とすとのたまへり。
婆藪槃頭菩薩(天親)の『論』(浄土論)、本師曇鸞和尚註したまへり。
願力成就を五念と名づく、仏をしていはばよろしく利他といふべし。
衆生をしていはば他利といふべし。まさに知るべし、いままさに仏力を談ぜんとす。
如実修行相応といふは、名義と光明と随順するなり。
この信心をもつて一心と名づく。煩悩成就せる凡夫人、
煩悩を断ぜずして涅槃を得、すなはちこれ安楽自然の徳なり。
淤泥華といふは、『経』(維摩経)に説いてのたまはく、高原の陸地には蓮を生ぜず。
卑湿の淤泥に蓮華を生ずと。これは凡夫、煩悩の泥のうちにありて、
仏の正覚の華を生ずるに喩ふるなり。これは如来の本弘誓不可思議力を示す。
すなはちこれ入出二門を他力と名づくとのたまへり。
道綽和尚、解釈していはく、『月蔵経』にのたまはく、わが末法に、行を起し道を修せんに一切の衆、いまだ一人も獲得するものあらじと。
ここにありて心を起し行を立つるは、すなはちこれ聖道なり、自力と名づく。
当今は末法、これ五濁なり、ただ浄土のみありて通入すべしと。
今の時、悪を起し衆罪を造る、恒常なること暴風駛雨のごとし。
本弘誓願に名を称せしむるは、これ穢濁悪の衆生のためなり。
これをもつて諸仏、浄土を勧めたまへり。たとひ一生悪業を造れども、三信相応すればこれ一心なり、一心は淳心なれば如実と名づく。
もし生ぜずは、この処なけん。かならず安楽国に往生を得れば、生死すなはちこれ大涅槃、すなはち易行道なり、他力と名づくと。
善導和尚、義解していはく、念仏成仏する、これ真宗なり。
すなはちこれを名づけて一乗海とす、すなはちこれをまた菩提蔵と名づく。
すなはちこれ円教のなかの円教なり、すなはちこれ頓教のなかの頓教なり。
真宗に遇ひがたし、信を得ること難し、難のなかの難、これに過ぎたるはなし。
釈迦・諸仏、これ真実慈悲の父母なり。種々善巧方便をもつて、
われらが無上の真実信を発起せしめたまふ。
煩悩を具足せる凡夫人、仏願力によりて信を獲得す。
この人はすなはち凡数の摂にあらず、これは人中の分陀利華なり。
安楽土に到れば、かならず自然に、すなはち法性の常楽を証せしむとのたまへり。
無量寿とは、一切衆生の寿、不生不滅にして、常住なるを無量寿といふなり。
※念仏大意(1212頃)「極楽はあさく、彌陀はくだれり、期するところ密厳華蔵の世界なりと」
即ち密厳浄土
即ち蓮華蔵浄土
即ち蓮華蔵世界
即ち極楽浄土
即ち安楽国
即ち安穏快楽
即ち浄瑠璃浄土
極楽浄土仏は、清浄安穏にして微妙快楽なり。無為泥洹(涅槃)の道に次し。それもろもろの声聞・縁覚・菩薩・天・人、智慧高明にして神通洞達せり。ことごとく同じく一類にして、形異状なし。ただ余方に因順するがゆえに、人・天の名あり。顔貌端政にして世に超えて希有なり。容色微妙にして天にあらず人にあらず。みな自然虚無の身、無極の体を受けたるなり、と。即ち仏の体也。無量寿経 より。
この仏国土は清浄安穏にして微妙快楽なり」と説いている。阿弥陀如来の極楽浄土は清浄安穏だから快楽(けらく)を得ることができる。また、『往生要集』の中で極楽浄土には「十楽」という十種類の楽しみがあって、その中のひとつに「快楽不退(けらくふたい)の楽」がある。「快楽不退」とは、永遠に尽きることのない楽しみということだ。楽しみも尽きることがあれば苦になるから、尽きることがないのが楽の条件である。そして、この世で味わう四苦八苦がない。生まれる苦しみ、老いる苦しみ、病む苦しみ、死ぬ苦しみ、愛する者と別れる苦しみ、憎らしい人と会わねばならない苦しみ、欲しいものが得られない苦しみ、煩悩に苛(さいな)まれる苦しみ、これらを四苦八苦というが、そのような苦しみが極楽浄土には存在しない。
即ち、
安穏(あんのん)とは何事もなく穏やかなこと。 快楽(けらく)とは精神的な楽しみ、法悦の楽しみ、心身の安楽と清浄な快さのこと。
浄瑠璃浄土は、東方にある薬師如来の浄土。瑠璃を大地として、建物・用具はすべて七宝造りで、多くの菩薩が住む。瑠璃の浄土で瑠璃光浄土とも称される。菩薩の時に12の大願を発し、この世門における衆生の疾病を治癒して寿命を延べ、災禍を消去し、衣食などを満足せしめ、かつ仏行を行じては無上菩提の妙果を証らしめんと誓い仏と成った。瑠璃光を以て衆生の病苦を救うとされる。無明の病を直す法薬を与える医薬の仏。
①密には、
一切十方密厳浄土を
②顕には、
一切十方蓮華蔵浄土を現じた。
1.『華厳経』の毘盧遮那仏、『
ぼんもうきょう梵網経』では、毘盧遮那仏とその化身である釈迦仏のいる浄土と説く。
2. 煩悩の穢濁をこえた蓮華のように清らかな報身の境界で、『浄土論』等では西方阿弥陀仏の極楽浄士を指し、東方薬師如来は蓮華蔵浄土を蓮華から出生した浄土を現じた。
仏暦2566年8月2日
午後8時42分満月即ち
一切衆生の願いは満願となる。
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